作成日: 11/10/31  
修正日: 11/10/31  

タイの洪水に見たもの

本当の悲惨さは、人の心の中に生まれる


タイの洪水のニュースが未だ旬です。首都バンコクでも首まで水につかってる人の
景色が映ったりしてました。首相を責める論調もあるようですけれど、天災なんですから
首相が誰でもかないませんし、仮に「手を打てた」としても限定的であり、その結果は
どこまでも「怒りの矛先」として首相にむかってしまうのは、政治家としては避け得ない
状態ですので、このエッセイでは割愛いたします。

さて、このタイの洪水ニュースを見ていて、アレッ、と思ったのです。
人々の顔にさほど悲壮感がない、ということ。
洪水のさなかでも商売をしてる人までいる、ということ。
日本も今年は天災続きで、企業は「日本で仕事やりにくいなあ」ってことの連鎖が続く年ですし、
さりとてこうして「ガイコク」であっても天災は避け得ず、むしろ今年はペルーでも
トルコでも大地震が起こっており、「グローバル化」というのは「機能不全」になりやすい
ものでしかないんじゃないかと身にしみる年ですもんね。

日本にも洪水が起こっていますから、ことさらタイの人たちの「自然との向き合い方」の
おおらかさ、こそ、今年の日本人には欲しいなって思ったんです。
もちろん、日本の洪水とタイの洪水は別物ですし、悲壮感についてどっちがどうの、なんていう
意味をなさない比較をしたいんじゃないです。
少なくとも、もうこれからの時代、「天災」は続くだろうと予感、というか、確信めいた
想定をしていた方が「生きやすい」と直感したのです。

いままでの「便利」とか「安い」ってのには「全世界の平和なところ」だけが条件であれば
グイグイと広がっていけたとは思うんです。でもそうじゃなくって、「どこもかしこも
自然災害」な時代に入り込んできてることを「無視していられるほど」つながらないで過ごせない
ところまできちゃってます。
どんどんつながる先を広げて行くのなら、どんどん相乗効果まるごと「リスクも背負い込んで」の
スケールがワールドワイドになるだけであり、さほどのメリット味わうまでもなく、
メリットを上回る「デメリットになりかねない懸案」だらけに、心が痛んで行く回数を増やします。
腐心した割にあわない結果につきまとわれる時代です。

タイのニュースで、各国企業の工業団地がまるまる水没してるシーンを見ました。
水没前には「北方へ逃げる人たち」でバスターミナルや電車に乗り込んでる人たちのニュースが
流れてました。その際、ひとりのバンコク脱出者のコメントで「明日には電車も出なくなると
聞いてるので、今日発つ事にしました」というのがあり、へえ、明日には電車でなくなること、
分かるんだぁ、などとぼんやり思ってみてました。
翌日、ニュースでそのインタビューされてた人の言ってた通り、北方へ向かう便がなくなった、と
出てた時に「あ、すごい」と思ったんです。

一般の人が生活防衛できるだけの「知恵」を持ってる。インラック首相が泣いてるインタビューを
してる向こうで、一般市民は「明日には脱出方法をなくす地区」であることが分かってる、
その懸命さ、というか、バイタリティ、というか、天災に関するはなの利き方にセンスがある、という
ところが、すこぶる好感を持ってみたのです。
日本だったら「大丈夫です。安心してください。慎重に対処してください」とだけいって、
突然ドン、と「出られなくなりました」って言い兼ねないですよね。とにかくパニックを避けたいが
ために、全然正確な事を伝えない。「パニックにさせない」が先行しすぎてて、手を打たせない。
挙げ句、救いきらない。強気に出てきたりもする。ひどいもんです。

私がタイの洪水のニュースに感じ入ったのは「人々が洪水に向かえてる」ことでした。
みんながみんなそうじゃない、のかもしれません。ニュースを見てる分には見られる映像だけ
抜粋してるのかもしれません。それでもそこに映ってる人々は、どこか「洪水は起こるものだ」と
観念してるし、ここまで水がきてるんだから、協力しあおう、としてるし、どっこい生きてる
人たちが、水の中を歩いたり走ったり料理したりしてる。
「まず、起こるんだ」がどこか人々の中に「知恵」として住まわってる。

これは「ギブアップ」ではない。
「分かってる」のだ。
どうにかねじふせよう、としてるものではなく、起こるべくして起こるものがある、という
しなやかな受動の姿勢。これが綺麗だと感じました。
なんとかしちゃう、とか、やっつけよう、じゃなく、起こるんだから。おこるんだもの、という
おおらかさがある。人の柔和な感受性が、洪水ってものに対して、一番しなやかに応じることへの
武器になっている。
これが日本の人たちに、今もっとも備わっていたら、もう少し優しく起こる事を受け入れる
ことのとっかかりになるんじゃないか、と思ったんです。

「リスクヘッジ」とかいう「考え方」に入っちゃうと、もう立ち位置のセンスが悪い。
これは「なんとかしちゃう」とか「事前に手を打っておく」という発想の上に立っていて、
根本的には「生きるためのしなやかさ」よりも「頭の良さ」で「回避」しかしていない。
私がこの日本の冬に起きた震災から感じ続けている、起こってしまう想定外の、大打撃に
対して「本当に備えなくちゃいけないもの」に、「リスクヘッジ」というのはいかにも
発想が貧相なのだ(末端の考え方の一つとしてまでが精一杯)。

震災は「起こる」を前提にしてた方が精神衛生にいい。
「起こらない」「起こらせない」はあり得ないんだから、「起こる」を前提に、「なんとかする」も
いいんだけれど、それよりも心の下層の方で「それでも起こっちゃうんだから」を観念した
発想が下敷きになくっちゃ、人が「生き物」としての知恵を「持とう」というところに立てないような
気がするんです。

こんだけトートーと書いておきながら、まぁ結論は出てるんですけど、
「起こりますんで、受け入れます」が生きるってことなんです。
タイの人たちだって、洪水は心底嫌だろうし、つらいでしょう。それでも、かの国の人たちは
ここにいたっても「ほほえみの国」でいるソコジカラを、私はニュースから感じ受けました。
馬鹿みたいに笑ってる、ってんじゃないよ。個々の人に「知恵」のバックグラウンドを感じさせる
「ほほえみ」になってるってこと。
膝や腰まで水につかりながら、警察業務をしている警官にしても、首まで水につかってるのに
給付食材を貰い受けたら、合掌をしているバラックに住んでるおばあさんの表情をみたりしてると、
ああ、今の日本でこういうこと、伝わってるかなあって、タイって国の人たちに、
私はジェラシーを覚えました。豊かさって、人のしぐさや顔に出るんですね。

震災は今後続くし、そしていよいよその規模を広範に、ひどさをましていくだろうけれど、
「想定外でした」とか言ってもなんにも益にならぬ無機質なコメントを聞き続けないで
済ますためにも、「起こるんだ」をまず腹に落としましょう。
そしてタイの人たちが見せた「自然への畏怖と従順さ」から見受けられる教訓を手に入れるべきです。
実に人間的なしなやかさです。そしてどんな土嚢も、土壁も防げなかった洪水から、最も早く
人々を復帰させる知恵の種を、人に蒔いてくれています。
首相がなんにもできない。はぁ、それがなんなんですか、ってところに立ってた方がいいじゃありませんか?