作成日: 11/11/05
修正日: 11/11/05
友人と飲んだんです
年を重ねてみえてきたものがわかるのもナンダカナァー
久々に昼寝ができて(つか、朝まで起きてて寝てないので)目覚めたらほどよく夕方だったので
コンビニに日経と朝日の朝刊を買いにいく。
ここ1年は、居所をあちこちに点在させてる生き方だから、朝目覚めて「どこの天井だっけ」って
思い出せなくなることもあるがゆえに、新聞を定期購読しなくなってしまった。おかげで
時々読む新聞をかなーりフレッシュな心持ちで読めるのが、案外嬉しいのでした。
今日はデジカメの特集がついてたけど、ううむ、こんなラインナップあたりを新聞が推してるけど
もっと永きにわたって持ってられるカメラを推奨できないもんかねえと一人唸る。
さて、今週は20年会ってなかった友人と飲み会を設定してくれる方の計らいで、夜中に
グルグル遊ばせてもらう日がありました。
人間、成長とか、変化とか、時間の経過にそった「代わり映え」ってものがあるんだろうなって
思ってたんですけど、逆ですね。そうそう変われやしないんだナーって思いました。
いや、家族ができてたり、実家を出てるとか、遊び方が「大人の」遊び方になってたり、
そういう変化はありますけど、青春時代に作ってしまった性格が、やっぱりその人の人生を突っ走らせる
どだいになっちゃうんですね。思った通りになるんだ、って思いました。
この「思った通り」というのは、「なにもかもがうまくいく」って意味ではなしに、「自分がした決意」も
「自分がしなかった決意」もちゃんと均等な量加減で、自分の人生に出ちゃうってこと。
自分の性格から、決めたりはじめたことであっても「図らずもそうなっちゃった」ことの量もけっこう
多くって、人生の分岐点を折り返そうかって時になって「なにかはじめたい」とか「面白い事を
手に入れたい」って、静かに気炎を吐く大人たちを見つけて「そりゃそうだよなあ」って感じる
自分がいました。
案外困ってない生き方にたどりつくもんなんですね。
青春初期にしてた心配の大半は杞憂でした。でもあの時に知りもしなかったことばっかりの量の方が
多くって、結局青春時代くらいに手に入る情報量では、人生80年の齢を見通せ、生き通せるだけの
指針は手に入れない方がいいのカモ、って感じました。
なんせ慢性的に人生には流転のときがあり、それがあろうことか、何度もある。
だからなにかを手に入れられなかった人は「チクショウ、俺はなんにも手に入れてないのに」と
憤る一方でやっかんだりやさぐれたりしますが、なにかを手に入れて、一見安定したものの中に
生きてる人は「これでいいのか、なにか違うんじゃないか」という不安と、「安定」を
約束してくれた基盤そのものが、思いのほかもろくて安普請な作りである事を知ってしまって、
ろくろく安心できない毎日を、持続的にハラハラしっぱなしの生き方になってる。
(その上自分の力だけではどうにもならないものの上に立って生きるしかない、という獏とした
不安を、大黒柱であるが故にそうそう愚痴れない立ち位置にある。そして悶々とする)
そう思うと、なにか若いうちに準備したものが、年を経てから役に立つとか立たないだとか、
ちっちゃなこと云々をさぞかし後生大事なもののように語るよりは、ハッキリと
5年先すらはっきりしません。てんで変わっちゃいますので。
今、目の前にくるものを拒まず受け止めて、精一杯やってください。
できれば楽しく。それを続けてると、案外いい人生になります。
・・・・というのが正しいんじゃないかと。私の見立てです。
いろーんなものが変わっちゃうんだよ。
なにか考えだして、動こうとしたら、邪魔だてするものがあって、それを回避したり立ち向かったって
いいんだけれど、数年後にはその障壁の方が自然崩壊してることがある。その当時はそんなこと
思いもよらないから、必死になって応じてたことが、霧散しちゃってることがある。
してた準備や、復讐や、学習が、一切合切無駄みたいに見えてきちゃう。あんなに自分に
身につけたかったスキルたちだったのに、身に付いて役立たせる頃には、全く別のフォーマット上で
後続の若い連中と同じスタートラインを求められる年配者ができあがる。
おっつけ、「狡猾」という頭の良さで切り抜ける回数を増やすようになっちゃいがちなんだけど、
これをすればするほど、人には疎まれるようになるし、そんな動機付けで生きる人間に
幸多きものが降ってくるはずもない。馬鹿なままじゃ駄目だし、頭がよくなっちゃうのも
案外ひどいことになったりするのだと分かってくる。ほどよい愚直さ、という「自分らしさ」の
質が、生きてると大きなファクターになる。
こういうのって若いうちには分かんない。かといって、じゃあ、無気力にあるのがいいかっていうと
それもまた動機の一つになって、結果を持ってきちゃうものだから、あんまりそういう
魅力のない考え方に執着しない方がいいと思います。
40越えると、きっとある程度は「思い通り」って言っていいと思う。
その人が備え準備してきたものが出てる頃。いいとかわるいじゃなくって、「ただ、そうである」と
自分でも他人でも肚(はら)に落としてくれるモンになってしまう(ここが決定的に若者との違いだ、諸君!)。
ここに至って「そんなもんジャナイ!」とかシャウトできる人は、自分に正直デショーけれども、
周りがかまってられるほど余力はないし、とばっちりにすらかまけてられないから距離を置く事を
みんなするから、つまるところ「孤立する」ようになってる。
それがゆえに、自分の身の回りを刷新したり、新しく発展する生き様を見つけられない中高年は
焦るのだ。ああ、こんなもんだっけ、ともなれるし、いや、こんなもんで済ます訳には、とも
思える分水嶺に立ってる。
ま、どっちだっていーんだよ、そんなのは。
自分なり、に人生は出来上がってくれるってこと。
願わくば、楽しく生き続けられる方向にみんな進みたいって思ってるんだ。
ただ、それにしつらえやすいテンプレートがないから、いったん迷い始めてなにかしだすと、
とたんにガタついておもいもよらないことになったりもする。
慌てちゃうのも自分のせいだからね。なにもしないのも自分のせいだからね。
ただ思うのは「うらやましがるに足る他人」なんて虚像で、妄想なんだってこと。
人の事はうらやんだりねたんだりしてないでいい。それは暇のある人間の時間の使い方でしかない。
その時間を他の事にあてがう方が、はるかに有益になりますゾ。
今回の飲み会をやってる最中に、私は何度か無意識に「メンドくさい」って言葉を発してたようです。
友人二人にそれを指摘されてハッとしました。
違うんです。照れ隠しです。メンドくさくなんかありません。「やる」「やらない」をはっきり明示する
会話にするのが嫌なんです。あいまいでいいじゃん、ってときに「メンドくさい」って言います。
「人に会うのがメンドくさい」って言い方しちゃいましたけど、失言に近いですね。
誰にでも会いますよってもんじゃないってことです。会いたい人には会ってます。
一方で会わないでおく、のも肝心です。なんでもアリってことにしてると、余計なものを背負い込みます。
なんでもアリにしておくほど、生き方を放り投げられない位置に居ますし、そろそろ余暇を楽しむって
ところになぞトーテー届かない序盤にまだ生きてますんで、そこいら辺から会話の最初に話すには
バタくさくなるでしょ?こんなときに私は「メンドくさいんで」と嫌われかねないベクトルのある
言葉を放り投げます。悪意はないんですよ。アップアップなところにすぐ触れちゃうんですよ、はい。
終電に向かう友人とトイレ入ると、そういえば学生時代、君はトイレ近かったよね、と
今日は私の3倍はトイレに入ってた友人にいわれ、ああ、20年も前のトイレの回数を
知ってる友人がいたわ、と感慨深くなりました。
なにがしかの縁で放り込まれてきたものは、拒むより、楽しむ方が有益ですね。
なんでもするっていうと、それはそれなりにこじれますけどね。
好きな事やってても人生は進んじゃうし、嫌な事にまみれてても人生は進んじゃう。
どう過ごしてるか、は結局「今やってる自分の生き方」の連続、でしかないんだから、今の一瞬一瞬の
「自分の解釈」だけが人生になります。いい方法も特効薬もありません、ありませんし、いりません。
ホラ、あなたが今見過ごそうとしてる、、ほら、その今の一瞬が。あなたなんです。
あなたでした。
じゃあ、どうすごしたらいいか、分かるよね。
私は、そうしてます。毎日大笑いしてる訳じゃないけれど、そう悪くない感じだと思うよ。
え?ホントにそうかって?・・・・メンドくさいね!
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