作成日: 11/12/17
修正日: 11/12/17
ふつうのこと/あたりまえのこと
なかなかね、これが。
どんどんぐいぐい、といろいろやってるんだけど、どーしよーもねーなって
ときってあるでしょ?そんなときには、今までとはちがう方法にチャレンジしちゃうじゃない。
とはいえ、新しい事をはじめちゃうと、案外「いままでうまくいってたもの」は破壊されちゃう
もので、おっつけ「うまくいってない」ことばっかりに囲まれて、さいなまれちゃう心持ちに
なったりするもんだ。
ま、いいのよ。それでいいと思うの。
新しい事っていうのは、そーゆーもんだもの。いいも、わるいもないのよ。
新しいんだもの。「今まであった」ものがなんだってのよ?「今はないもの」が
どうだってのよ。そんなそんじょそこいらの、「今の気持ち」ばかりでウンウンしてるのが
嫌になっちゃったから、はじめたんでしょう?「新しいこと」ってのをさ。
このごろはじめたのが「ふつうのこと」なのでした。
奇をてらったりしないで、地道に、ごく地味に「ふつう」を続ける。
波風の立たない過ごし方のように感じられるが、案外これが忙しい。地味なところというのは
なんせ手抜けないものが多く、やるならとっくりと取り組まないと、おさまりが悪いし、
こってりじっくりやったところで「地味」な結果でしかなく、見栄のいいものにはならない。
ただし、自分の中には言いようのない「満足げ」な気持ちが鎮座して、凛としている。
「あたりまえ」って言葉があるけれど、当たり前に生きてる人って言うのは、幸せなことだ。
「自覚」なしに「当たり前」だなんて思っていられるなんていうのは、それをなくした事のない人の
感性だもの。一回でもその「あたりまえ」をなくした事のある人は、「あたりまえ」だったはずのものが
どういう具合に自分にまとわってくれてたのかすら分からず、「再び手に入れる」最初の
とっかかりすらわかんない。さんざん手こずって、右往左往して「あたりまえ」だったものを
取り返せた時に、今の今まで、それを「あたりまえ」にさせててくれた、周りの人たちに
いいようのない感謝の念を持つ。そして、あたりまえ、っていうのは、「まわりのひと」が
しつらえてくれていた、とても優しいものであって、自分の意思ではほとんど創出も、再現も
できないことを理解する。
ふつうも、あたりまえも、「じぶん以外」と「生む」もの。
合作なので、なにがふつうで、なにがあたりまえなのかは、人によって全然違う。
ひとりとして、他者と「おんなじ」ふつうも、あたりまえもない。
じぶん、というのはひとりだけだし、そのじぶんにとっての他人は、やっぱり「じぶんにとっての」
他人でしかないから、他の誰かとかぶりようもない。
味わうに値するものなんだ。ふつうも、あたりまえも、「普通で、当たり前」で手に入ってる人はいない。
ものすンごい工夫や、努力や、仕組みをしつらえて、やっとこさで、成り立ってるものだ。
あなたの親にしろ、あなたの友達にしろ、あたりまえでもふつうでもない。
運良くめぐりあわせて、そこにいて、そこに育って、そこにぶつかって、やっとこの具合に、
かろうじて、そこに「ある」のだ。
相手がいてもらって、ようやく成り立つ「関係」であるのだ。誰か一人欠けてても「そうはならない」
世間で生きているんだ。ぎりぎりなんだ。本当は、もろくて、失いやすくって、薄いものなんだ。
それを気兼ねなく、おおらかに見渡して「過ごしていられる」というぜいたくを、あなどっちゃいけない。
今年は震災がひどかった年だったから、ことさらそれを感じます。
「あたりまえ」も「ふつう」も、なんの前ぶれもなく、スンとなくなっちゃった人もいたと思います。
悪い事をしてないのに、ちゃんと生きてきたのに、まるでなにかの罰のように、一切合切の
大事なものを失わされた思いをした人もたくさんいました。
突然に、理由もなく、一斉に。
起こるときは起こる。それはいい、とかわるい、じゃなくって、起こる。ただ、起こる。
なにかが起こると、なにかは生まれて、なにかは失う。決定的なのは、「元通り」にはならないってこと。
これがなにより嫌なものだ。本当に、嫌なものなんだ。
ふつう、も、あたりまえ、もほんとうにうらやましくって仕方のない人から見ると、それに囲まれて、
そこで過ごしてるってだけの人が、まぶしく見える。まぶしいよ。直視してたくない気持ちって
それが心に芽生えてるってだけでも、がっくりしちゃうのに。そのうえ、まぶしいんだもの。
嫌んなっちゃうよね。なるよ。なりますよ。
ワタクシごとですけどね、ふつう、とかあたりまえ、をじぶんのまわりに少々根付かせることが
できるかなって気持ちで、ふつうと、あたりまえを、「植えてる」つもりでいるんです。
植えれば育つじゃない。育てば、実るじゃない。実りって、周りの環境、働きかけで結果を変えるじゃない。
実りって、けっきょくのところ、激しく「運だのみ」じゃない。その実りを、いいものにするんだもの、
そりゃまわりをいいものでしつらえていくわけですよ。地道に。たっぷりと。ゆっくりと。とっくりと。
そして、やるだけやったら、結果がよかろーとわるかろーと、受け取る。
そのまんま受け取る。それが生きるってこと。それが過ごす、ってことだもの。
と、書いてるようなことがストンと肚(はら)に落ちるようなら、人間悶々としないで済むのにね。
いいことにはいいこと、わるいことにはわるいことがめぐって欲しいから、人は頑張れる。
でも実際そうじゃない。いいことしててもわるいことはめぐるし、わるいことしてても、いいことの
ある人はいる。これに怒るようでは、それは「じぶんの期待の仕方」のセンスがわるいのだ。
そんな神頼み的に、めぐりあわせを、引っ張り込もうだなんて欲張っちゃいけませんよ。
いいものも、わるいものもめぐりあわせてくるんだよ。
それを「ふつう」に、「あたりまえ」に受け取ればいいの。いいとかわるいじゃなく、受け取るの。
ちゃんと受け取って、そのじぶんにめぐってきた「めぐりあわせ」の中で生きる人が、
一番頑丈な人なんだ。一番、幸せに近い人なんだ。
カシコくなくたっていいし、カネモチじゃなくてもいいんだよ。生きてるのがすごしやすい人ってのが
わたしはいちばんいいことだとおもうんですけどね。比較もしないで済むし、つまらない情報で
右往左往してばっかりの生き方は、ちんまりしますよ、人生が。
ふつうを大事に。
あたりまえを大切に。
|
|