作成日: 11/12/17  
修正日: 11/12/17  

鏡のようなもの(他3編)

日記はやめる・言葉は慎重に選ぶ・相手にそうさせたのは、自分



●鏡のようなもの
人と会って話してる時に、相手のことを思って、助言やこちらの本音を伝えるときが
ある。よかれと思って伝えた言葉が、相手のいいようにとられて、こちらがしてなかった
解釈で、好きなように使われて、責められるときがある。
印象としては、身内から刃物を向けられたような、いいようのない殺伐が出るんですけど、
このごろ気をつけるようになったのは、「鏡」のように、相手に対峙するということ。

相手の出してくるものが、こちらにとって「失礼」「無礼」であるときは、「鏡」のように
「感情抜きで、相手の今の態度に応じて『相手を映す』」ようにしてる。
普通の人なら、それを見て、じぶんの姿を考え直してくれる。
頭の悪い人なら、気づかないだろうけれど、こちらは鏡なので、自分の感情を正直にした
さみしさは、いくぶんか救われる。

誰でも、ってんじゃないよ。1回はどんなひとにもだまされる。2回目は、鏡、で行く。

●日記はやめる
ネットで疲れる回数が増えた、と書くとうなづいてくれる人は多いと思う。
ニュースは悪いものか、買い物をしろ、ばかりでうんざりしてるところへ、ブログ、SNSに
はじまった「日記」の発生で、普通の人が、ネット上に言葉を投じることができるようになった。
「コンテンツ」を作るのではなく、「日記」「つぶやき」でネットへ参戦できるから、
自由キママな感じがするんだと思う。
私は日記の投稿で、ずいぶんくたびれるものだと感じた。ノートに書いてる日記は疲れない。
ホームページの更新についても疲れない。なのに日記やブログは疲れる。

ネット上に書く日記というのは「ああ、楽しかった」と「怒ったよ」などと、結局のところ
「ネット上に書けるネタ帳」くらいまでの「出していい方の本音」までのような気がします。
これをしちゃうと、人に見せられるネタ探しみたいな心の通路ができて、苦しくなります。
自然体で出せる人は、それはもう「コンテンツ」なので、いいのですが、わたしは性に
合わないようなので、日記みたいなものの投稿はよすことにしました。はい。

●言葉は慎重に選ぶ
言葉で他の人とやりとりができる。言葉でしか伝わらない、とか教えられてきてるので
けっこう一生懸命言葉をつむぐようにはしてきた。的確に、分かりやすくしなくちゃと
やってきたけれど、「言葉では伝わらない」ものがうんとたくさんあって、そっちのほうが
断然ここちよくって、このごろはそっちに依存することが増えてきた。

「言わなきゃわからない」「言っても分からない」ことがある。
言葉って限界があるなあ、って思う。
そうは言っても言葉でしかやりとりできない相手には、どんな感情も言葉にして伝えきらなくちゃと
それはもう必死さあふれる感じになっちゃうことがある。
ところが、言葉は道具、でしかなく、どんなものもとらえられるっていうものでもない。
正確さで言えば、言葉という道具はけっこう未完成な作りにもなってて、「言い切れない」事象は
世の中にごまんとある。
「愛」なんて、単語としてはよく出てくるけれど、言葉として、単語として分かっても
「愛」はとらえられないですよね。いい言葉のようにも見受けるけれど、実は利己心を秘めた
駆け引きの単語としての意味もあわせもったりして、「だいたいのイメージ」でやりとりする
大ざっぱなツールにはいいかもしれない。

だから「あの時、ああ言ったじゃん!」とか「こういうこと、言ったよね?」のように、
自分の発言が、その後になにがしかの「制約」にされちゃうような目に遭ったりすると
ずいぶんうんざりした心持ちになる。
道具の使い方で、結果は変わる。それは分かる。道具にこちらの生き様が左右されるっていうのは
どうなんだろうね。道具に負け込んでる。それほどの「契約」「拘束」の力を与えるべきなんだろうか。

「言葉を信じる」ことで、人とつながることもある。道具だから、そういう使い方もできる。
本当に信じれる人は会ってなくても裏切らないままだし、言葉を使ってないところで
相手の信頼を感じる挙動を示してくれるから、すでに言葉という道具を使わないで済む領域に
達してるけれどね。そういう意味では、言葉は「二の次」な存在であってくれればいい。

言葉は便利ではあるけれど、全てのことに通じるマイティな存在ではない。
依存したくなっちゃうこともあるけれど、心が弱ってるときだ。
それだけに、自分から出した「言葉」は文字にも声にもなっちゃうけれど、相手にも残るし、
紙面にも書き出せるだけに、「使われる」ことも発生しちゃうものだ。
だから慎重に。

自分の思ってるものが伝わればいいけれど、
「そこにこう書いてある」とか
「あのときあなたはそう言った」とかいうように
お金と一緒で、相手にも「使われる」道具でもあるのだ。
道具だから、加工もできるのだ。

「冷温停止状態」などという、言葉の使い方で人心に波風を起こすような言葉を
偉い人が使うのは、「いたぶってる」相手がある以上、どんどん言葉に対する不信感が
募ってしまう。
行き着く先は「なに言ったって信じれない」という、言葉というツールがもっとも得意なところを、
もっとも不細工に木っ端みじんにする結果だ。「ただ、あのひとがそう言ってるだけ」という、
ただの「音」、もっというなら「雑音」にしかならない。

表題にしてるような「慎重に選ぶ」という表現では、『誰彼に挙げ足をとられないように』的
語感があるかもしれませんが、それではびくびくして生きなさーい、っていってるようなもの。
違います。言いたいことは言ってもいいんです。誤解されることもあるでしょうが、それは
相手次第なので、誤解は怖れずに言い放ってしまいたいのです。相手側も「ふわふわしてる言葉
使ってるなあ」くらいのスタンスで受け取れる具合の信頼度があって欲しいのです。

慎重に選んで、自分の感情を、丁寧に言葉でしつらえた時には、品が出ます。
少しくらい、荒削りであっても、足りなくても、いいものになります。
慎重に使う、というのは、言葉が、言葉以上の威力を背負って、相手に入っていける品を
かぐわすものであって頂戴、って方の意味です。

慎重に使えば、言葉は豊かに人に入っていける。
もひとつ言えば、言葉を使わないで伝え合えるものは、もっと豊かだ。
それは「便利」とかいう次元ではないところで、人に役立つ。

●相手に、そうさせたのは、自分
嫌な目に遭ったり、ひどいことになったりすると、人は相手が悪いんだ、って即決しちゃうもんです。
しちゃいます。こっちは悪くないのに、って思っちゃいます。
でも相手だって考えてて、「あいつにはそれがふさわしい」って思えるものを投下してきてますから
「それくらいのことは言ってやってもいい」とか「これくらいのことは分かってなくちゃね」と
「相手の思う『こちらに相応なもの』」をプレゼントな訳です。相応なわけです。ふさわしいわけです。

と、思えばですね、こちらがどう思おうと、相手側としては「ふさわしい」んですから、
意識して「ハイ、どうぞ」なもので、自分は見舞われてると思った方が、いいのです。
積極的に嫌なものでも受け取ってしまい、「そうか、これ相応なもんなのか、私は」と思えば、
いっそ自分の立ち位置が、スッと見えたりもします。直す点も、相手が教えてくれたと受け取ることも
可能にはなります。(嫌なら無視しとけばいいしね)