作成日: 11/12/19  
修正日: 11/12/19  

それは別々のもの

ハッキリせんでよし。


おそらく、「自分の意識」ってものと、体、っていうのは別々の「頑丈さ」で各々出来上がってて、
意識、意志の強すぎる人は、「自分の思うまま」を貫きたがる気持ちが強すぎて、体が悲鳴を上げるのを
聞けなくて、もしくは聞き捨てて、自分のやりたいことを優先してしまえるんだろう。
ある程度の無理なら、体の方も「あとで養生するならいいや」と、譲歩してくれるが、
ひっきりなしに、「言う事を聞け!」「とにかくやるんだ!」と意識・意思の方がのべつまくなしに
せき立て続けるのなら、当然疲労は重なり、体は壊れるだろう。なにかをやり遂げる人で
意外に早くお亡くなりになる人は、そうした自意識を先行させた人も多いように感じる。

一方で、体の声に敏感で、無理をせず、思うがままに、なすがままに過ごすこともできるが、
これは「やり遂げる」というものではなく、なるようになる、ケセラセラであって、自意識は
「育つ」ことをどこかで放棄してしまいがちになる。「別にやりたいことはないんで」というのも
悪くはない。生きて死ぬのが人だ。みとめるけれど、私自身はそれを得心しない。

自分の意識の頑丈さを量り、体の方の調子も加味し、お互いに裏切らない線上をみつけて、
ひとつ多くのことを味わう贅沢をば目論みたい。

仏教の本、それも2~3人の人の本を集中的に読んでるから、一般論じゃないかもしれないんだけれど、
「矛盾も苦痛も抱え持つ」懐を覚悟した「仏教」では、割り切りの利く「世界規模の宗教」に対し
「元気が出ない」って部分があって、いざ挑まれたりすれば、仏教なんてものは
負け続けるもんだと書いてあって、ああー、そうだよなーって思いました(引用もとには正確にもっと
精密で込み入った論説があるんですけど、ここではチョー割愛します。すんません)。

「割り切る」ことをすれば、「信じる」ことを貫ければ、なにかを成すことはできる。
余分を捨てたり、余分を「ないこと」にする思想や発想に、自分が賛成できているうちは、
思い切りもいいし、ひきづられるものも少ない。
そういう勢いも「強さ」と言えなくもない。

上に言う「自分の意識」が水際立っていて、一定期間をなんだか「オールマイティな感覚」というか、
麻薬めいた万能感覚みたいなものに、みなぎる力が湧くときというのがある。
若いときは特にそれを憧れるし、その維持を期待する。
人は誰もに若いときがあって、その「みなぎった感じ」を、多かれ少なかれ、体験してる。
どこか「いつでも思い出せちゃうんだから」と、意識ではない、体のどこかが覚えてて、
「適切に呼び出しさえすれば」瞬間的でも、溌剌とする自分は抱え持っているんだ、と
思っていたがっているものだ。「いざとなれば」ってね。懐刀みたいにね。

ここにはひとつの乖離(かいり)がある。
体と、気持ちがちゃんと分かれてる。
お年を召して、疲れが分かる体になると、気持ちだけ先行してもギクシャクしちゃう。
若いうちほどの「いつでもガンガンいっちゃる!」と息巻いた姿勢は、年配者には「無用なハッスル」
でしかなく、万年ハッスルハッスルしてなくちゃならない生き方っていうのは、それはそれで
リタイアがガンガン早まってるだけの「先食い」なんだと、年を経た人は分かる。若い人には、
分からない。

だから年配者が、若者のテンションに合わせたふうにして、一緒にはしゃいでみたところで、
心も体も泣くことが「身にしみる」のだ。これだって、先食いと同じ。

さて、体の頑丈さと、気持ちの方の頑丈さが、自分で分かってる、って人はそれくらいいるんだろう。
どっちかっていうと、「言葉で考える」現代にあっては、「自分」の気持ちの部分がやけに
肥大化してて、ただ「知ってる・知ってる」の連発ばかりを味わっちゃいないだろうか。
行動に重きを置く生き方、行動の方から出てきた「予見してなかった」結果から「教えてもらった」
生き方ってものにありつけてる人は、どれくらいいるだろうか。

「自分」というのは、「体」と「気持ち」のふたなりなものが、いっしょくたになってるものを
総称してるのであって、その「自分」を使って、なにを、どう味わって、洗練していくのかが、
「生きる」ってことだと思うのね。

「『自分』を使う」ってこと。

ここに『自分』を二重カッコにしてるのは、自分は自分でありながらも、親御さんが生んで
育ててくれた体というパーツに、どことはなしに宿い芽生えてた「意識」という、どこまでも
「自分」で作れたものがなにひとつとしてない、運次第な巡り合わせ一辺倒なものを、
「自分」とエラソーに主張できるほどの頑強なものと捉えることは、この際いっそ控えてしまい、

「『自分』と自分で呼んでいるもの」という、ちょっとヨソヨソしい感じで、自分の存在感を
外野から見かけたような気さくさで扱って、意識に絡めとられがちな、思い込みで
突っ走る頑強さを捨て、もうちょっと上位な立ち位置から、適切な方へ、ポンと押し出して
やるくらいな「他人行儀」さで生きた方が、うまく行くような気がするのだ(長いよ、このセンテンス)。

本気すぎると、自分に酔ってる。
結局実力なんか出てない。自己満足。
覚めて見やる自分があってこそ。
それは「体」の方も了解してると、「体の声を聞く『耳』」があってこそ。

なんせ「自分が分かってれば、いいんだ」と人は思いがちだけれど、
「一人思い込んでる」ことと、ハタの人からでも理解できる「その人らしさ」は
全く役立ち方が違っている。頭でっかちに生きると、短命だよ(落語じゃないよ)。

フツーに生きてて、自分が一番効率よくなってるなんてことは、あんまりないと思う。
かといって「考えて、考えて」という理論武装も、どこか最初が間違ってる。
その「落としどころ」の話が今回書きたかった。

これを言葉にすれば、もう別の意味になっちゃうので弱るんだけれど、
ま、ここにはちょっぴりそれが「示せた」感じがするので、よしとする。
はい、おしまい。