作成日: 12/01/29  
修正日: 12/01/30  

果報は寝て待て

愛車にまつわるエトセトラ


愛車が壊れかけてたんです。いや、厳密には一旦壊れちゃったんです。
予兆がありました。1月に2度も3度もエンジンオイルを注ぎ足さなくちゃならないなんて
なにか壊れ始めてたって思うべきなんでしょうね。それが分かってなかった。
富士山まで日帰りしたり、高山巡りを何度もしたり、およそ愛車のスペックを越した
使い方も祟ったのでしょう。
ですから正直に壊れた、と観るのが本当でしょうね。

年末の忙しいさなかに、突然エンジンに力が入らなくなったんです。
アクセルをいくら押し込んでも力強さがなく、加速にもつながらない。むしろ
平坦な道でブーブーと騒音を立てる割に、進むことに躊躇してる感じから、ああこれは
点火プラグか、イグニションコイルってのが壊れたんだなとタカをくくっていたのです。
まぁ年末年始の際だけど、まだなんとか部品交換で済むだろう、くらいのノンキさで
そのときは構えてたんです。

でも違いました。
懇意にしていたモータースさんには、エンジンが寿命だと伝えられました。
私は修理できるものだと思っていたので、いまさら慌てふためいたのです。
そうこうしてるまに、年末年始を迎え、それでも日常の仕事は続き、朝もなく夜もなく
動かなくちゃいけない時にあって、ようやく自分が愛車にどんだけ依存した生活を
していたのか思い知りました。
愛車がしていてくれたことを、徒歩、自転車、電車で代用する時には、衣装、パス、
時間管理など、複数の段取りが突然もたげてきて、「不自由」な思いをするのです。

苦痛に満ちた年末年始を経て、新車、中古車案に走っていた矢先、愛車は偶然にも
修理が出来て走れる状態にまでディーラーの手で回復したのでした。そうはいっても
マフラーからは後続車が異常な距離をとるほどの白煙を蒔き散らかしてましたし、
年度末に向けて保険の手続き、夏に向けての車検、到底車検を通らない愛車専用サイズの
タイヤが見つからないなど、やってもやっても事態は複雑化していきますね。

愛車は走ってくれているものの、明らかにエンジン音が異常で、長く走れるものでは
ないことは分かっていました。それゆえ、新車、中古車の選定に入っていたのに、
なぜか私はその愛車のフロントガラスに遮熱フィルムを入れました。
ハンドルにはカバーも。つまり、乗り捨てて下取りに出すはずの車に手を入れ始めて
いました。そしてそれまで知らなかったエンジンスワップだのリビルトエンジン、
オーバーホールという手があることが理解できて来て、今度はどれを
選ぶのが適切かと悶々とし始めました。

つまり新車、中古車、愛車の乗り続けの3択に至ってました。
頭の理屈では、新車、中古車でいく気持ちがはっきりしてるのに、やってることが
どうも違う。反射的に愛車を乗り続けた場合の段取りを模索していました。

事実、リビルトエンジンひとつにしても、タービン周りもあやしくなってくるわ、
必ずしもいいリビルト品に巡り会わす訳でもないわと、やきもきしたり、その手続きが
見えてこなくって、ナニをドーしていいのかちんぷんかんぷんだったのです。

そんな時に「果報は寝て待て」という言葉がよぎりました。
んー。
果報?なんでこんな時に、と思ったんです。
寝て待て?
寝てろって?できることがまだごまんとあるはずなのに、寝て待つたぁどういう心境で
いたらいいんだ、と自分で自分に立腹してました。
そう、立腹してたんです。

そう、腹が立ってること、が自分で分かりました。
分かったんですよ、怒ってるって。

普段はね、分かってないんですよ、怒ってるときって。
頭に血が上ってて、「怒ってる」という自分の状態如何を把握する余地すらないんです。
まぁつまり思いの丈の分、ふんだんの怒りきることができてるもので、ついぞ自分が
「ああ、俺、怒ってるなあ」って客観視する仕組みが遠ざけられてるんですよ。

ところが今回は「怒ってる」がとても自覚的だった。
年末年始から、事態が1ヶ月近く悶々とし続けているというスパンもよかったんでしょうね。

なにに怒っているのか・・・・・
なんだろ。
なんだか怒ってる。
怒ってる対象がいくつもあって、怒ってるんだけど・・・
なにがこんなに怒って過ごさせてるんだろうとシフトしてきました。

自分が思い通りじゃない、ってことに怒ってるらしい。
思い通りなんて、ほとんどないのにね。
いやむしろ、思い通りじゃない、まで味わい尽くせてこそが、生きるってことなのに。

そもそも「思い通りじゃない」のか?
いやこれは言葉が違うな。
「希望通りじゃない」って方が言い当ててる。
今、私は幸せじゃないって思おうとしてる。そう感じ受けている。

今回、誰かが私になにか入れ智慧でもしただろうか。
なにかこうしなさいと、制約をかけて来たことがあったろうか。
いや、ない。
全部自分で決めて動いてる。
好きにしてる。決めて進めたことばっかりで満ちてる。

ああ、じゃあ、なんで思い通りじゃない、なんて思えるんだろう。
素敵なキラキラした未来像じゃないのかもしれないけれど、どの行程も、事態も、
全部自分でやって来たことと、その結果の塊でしかないじゃない。

イレギュラーなこともあるけど、それでもおおむね、自分のやってきたことに
結果がついて来てくれた。
そう思うと、今度は自分の身に起こってくることの「ことごとく」が「最善」の
工夫のうちに巡って来てるものばかりだと思い始めたんです。

ほう。
じゃあ、なんだろ。
自分は、自分で選べるものばかりで周りを囲んで来たってことだよな、と。
まぁ自分で選べなかったものに囲まれることもあったろうけど、その時々で選べる
最善は、自分で決めて来たんだから、分岐分岐では「自分の最良」を取捨選択してきた
わけじゃないか、ってことですよ。

んじゃあ、今自分が置かれてる状況は「最善」な選択の連続の上で、「最良」な分が
てんこもりにされているのであり、その自分が自分に寄せて続けて来た結果に
「こんなもんじゃない!」って言い放つのは簡単だけど、それって「自分のして来た判断、
全くもって不正解!」と自分でイチャモンをつけるようなものである。
自爆行為に他ならない。自傷行為でもある。

ここに以前のエッセイでも書いて来た、私なりの「理由なき自信」が忍び込んでくる。
自分が最善で選んで来たものが、間違ってるはずがない。いや、間違っていたにしろ、
自分で選んだんだから合点はいってる。つまり結果の否応に関係なく、少なくても
自分で分かりきってやってることばかりなのだ。
ああ、そうか、そうとなれば、自分に巡ってくるものは、「いいもの」に他ならない。

いくつもの手間ひまを経て、自分に至ってくるものは、いいものであるように
やってきたんだから、そこから連なって出てくる結果が悪くなるなんてことは
まずない。仮にあっても、納得できる。事実、それ以上のことは自分にはできないことの
連続できてるんだから、どのみち打てる手はなかった。
それは今自分の周りにある仲間、家族、環境まで全部ひっくるめて出せる最善のアイディアを
引っ張りだして来たり、まぜっかえしてみたりして、自分なりに混ぜられるだけ混ぜたものの
なかから作り上げてもいるから、いよいよ自分だけでもない部品までくっつき合わせて
出来上がってるものなのだ。これ以上は、ない。

ほう、じゃあ、悪いものになりようもありませんな、と思いが至る訳です。
悪くたって、「こんなもんで済んだか」って仕込みを、自分ならしてきたんだから、受け取れる。
つまりは、自分の関わってて、自分のやってることっていうのは、「最高の果実」に他ならない。

ああ、じゃあ。
じゃあその「オイシソーな果実、たわわに実りましたよ」っていう「果報」がくるだけなんだから、
あとは待ってればいいのだ。最善をつくしてますもん。

が、なぜか、ここで「結果を待ってる」ってことにもイライラしてる。
申請は通るのか、いい部品はくるのか、この業者さんは信じられるのか、いつできあがるのか・・・
などなど、いくらでも、どこからでも「悶々の紐」を引っ張りだしてこれるわ、ねじれるわ、
こんがらがれるわで、心の中はスイと大騒ぎにたどり着けちゃいます。

「果報は」のあとにつく言葉が、またいいじゃない。
「寝て待て」です。

果報しかこないんですよ、どうしたって。
その人に相応なものが人生って奴が放り込んでくるのなら、どんな結果も自分相応ってことですよ。
ましてや自分でできることは、ちゃんと惜しまずやってきたのだから、結果っていうのは
「果報」に他ならない。

果報がやってきますので、ってんでそこから「いらいらしてたり」「なにか準備しだしたり」とか
「余計」なことをしだすと、向こうからちゃーんと仕上がってきてくれる「果報」に対して、
こっちが手前勝手にジャカスカとトッチラかした受け入れ態勢にしかなってないんじゃ、
せっかくの「果報」が上手に受け取れないってんですよ。
ふんわり、上手に、果報を受け取るにも、姿勢ってもんがいるんです。いい姿勢で、きちんと
受け取ってあげないと。ジャカジャカしてたら、果報の方から「こんな受け取られ方じゃ
お断り!」って判断すらされちゃうでしょ。
自分の側で「色を付けて」待とうとするな、ってことですよ。すでに「果報」の状態を
出来上がってるものがくるんですから、こちらはそれを堪能し、味わい尽くすためだけに、
プレーンな状態で、待てばいいのです。それはなにかにかする、というんじゃなく、
「寝て」待ってるくらいの心持ちで、スンとしてないさい、くらいがちょうどいいって
ことです。寝付けないほど、高ぶるってのもイケマセンってことですよ。平常心でいなさい、と。

変なたとえだけれど、
金の王冠が届くって時に、「ジャムは美味いから」って王冠にジャムは塗らないでしょう?
金の王冠は、金の王冠ってだけで綺麗じゃない。周りがそれを騒ぎ立てる必要はない。
ましてや、的外れな「にぎやかし」なんてものは、泥を塗る行為にしかならない。
余分、余計なことはしない方が洗練されてる。

「果報は寝て待て」っていうのは
「果報」の部分を信じられる思慮、姿勢と
「寝て待つ」という、マナーのような、エチケットのような礼儀作法が
混合してできあがってる言葉なんだな、って思ったんです。

つまり、私はいまだにこの愛車にまつわる混沌のど真ん中にあるわけだけど、どこか達観
してられるのは、こうした「果報は、寝て待つ」が最良と、肚にくくったわけです。
すると業者さんとの話し合いにも、全然いらいらしなくなってるし、今自分が預かり知らない
話がどう進んでるか見えてなくても、「うまくいってるに違いない」と疑いの念を
持たなくなりました。

そう、心配っていうのは、自作自演なんですね。
自分をさいなむことができるのは、自分だけなんですね。
自分が許した分だけしか、自分をがっかりさせられないんです。
心配はし放題です。青天井に、どこまでも悶々と出来ます。

これはお金に関しても、人生に関しても、似たことが言えると思う。
欲しいものはどこまでも際限なく欲しがってばかりいることを追体験させるばかりで、
渇望感ばかりを「拡張」してしまう。使い慣れた感情を、人は使い回すので、
「足りない、足りない」で生き始めちゃうと、その車輪は、どんどん大車輪になるだけ。
なるだけなんよ。好きでやってるんよ。その車輪は、自分で止められるし、自分で回せる。
つまり自作自演。好きにやってる。やれてますよ、人ってものは。

自分自身が癖のようにやってる「あ、ここ、ちょっと足りない」っていうものの見え方って、
随分と自分を遠くにまで引っ張りだすアイテムだから気をつけて。それ、ちょっとで済まないから。