作成日: 12/02/01
修正日: 12/02/01
私たちを次世代のためにも前世代のためにもあてにしないでください
愛に力があるのなら、みせてください
毎年日本人は3万人以上を自殺で失っているそうだ。その日本が「人口が減ってる」と
いうことで、やれ結婚しろだ、産業を担うだ、子供は未来だなどというが、3万もの
人が「生きるのが無理」になることを脇において、将来云々がどうも腑に落ちない。
今、生きることが、生き続けることが困難であることは、なんだか「弱さ」みたいに
打ち捨てられてるような違和感がぬぐえない。
自殺というのは、自分の意思で、命を絶つから、事故とか不慮の亡くなり方と違う。
自殺する人のことも、自殺されてる社会も、目が向いていない。
1年に自殺者を思いとどまらせることができれば、毎年3万人づつは、少なくとも
生き続け、人口数に足し算になる。
大人になって、突然結婚しなさい、とか家族をもてよ、と言外の圧力が突然かかることが
あるけれど、私たちは子孫を残すために生まれたんだからといわんばかりになるのが
心苦しい。
一方で年配の人が中年熟年離婚をして、見苦しいほどの再婚をする言葉尻に
「孤独死が怖かった」とか「看取ってくれる人がいて欲しかった」と出ることがあるが、
正直ではあるけれど、世間に結婚式などで誓う「愛」なんかで連れ合うわけじゃないと
あまりに赤裸裸に判明する。利害関係が先行し、底辺に流れる絆がそれであることを、
若い人や後続の世代は、気持ち悪く思うんじゃないかと、私は思う。
「つまり愛なんかじゃ生きていけないんですね」ってことばかりが目立ってる。
「子供たちは、私たちの未来」って言い方が、昔から飲み込めなかった。
どーゆー意味なんだろうとずっと思ってた。子供は子供ですよ、と思ってた。
貴方の未来は貴方の未来ですよね、子供には子供の未来ですよね、って思ってる。
次世代を担う、とか銘打つものは、おおむね「自分のやってることを連結して続けて
高めてくれ」という、暗に要望を突きつける方法にも見受けられる。
モチロン、自分の意思で伝統を継承する人には価値がある。
印象が、「自分の世代で組んだローンを、お前も払い続けて欲しい」みたいな憤りが
強い。
道徳概念みたいなもので「家族は大切」というのはよくわかる。友人だって知人だって、
家族に負けず劣らす大事で大切だ。
現時代も担いきれない人たちの集合が、次世代を云々、とすでに口出しはじめているのが
おこがましいと思う。次世代は次世代だ。かくありたしみたいなことをいって、
矮小な妄想を押し付けるのは、遠慮できないものか。
それをあまり大したバックボーンもない「道徳観」や「一般論」をもちだしてきて
高らかに「そういうのは立派なことなんだから」とぶち上げる頭のワリー人が多すぎる。
そういうのがまかり通り続けてれば、絶望で亡くなっている人の方がまともに映る。
(先に言いますが、私は自殺は肯定できないんです。考え方はひとそれぞれでしょうがすいません)
道徳や、愛に力があるというのなら、まずもって自殺するしかなかった毎年3万以上もの数の
人を、思いとどまらせるものに、実践でなすのが本当だろう。
亡くなる人は亡くならせておいて、未来の話は別、みたいなきれいごとに、たいがいの人は
辟易としているんじゃないだろうか。
こんな風に書いてると、文句のつけられるところに、ただの強行さで、善良な体裁を盾に
景気よくワンワン叫んでる人になりますね。馬鹿馬鹿しい。
世の中が嫌んなった、っていいたいんじゃないんです。
どうも浮ついた着眼点を、言いたいことのある人が、ただ言いたいようにしてるだけで、
まるで叫び声の数ばっかりが増えて、不幸な人は不幸なままで、自殺する人は自殺するばっかりで、
全然、なんにもよくなっていかない予感しかしないのは、当然のことだろう。
学校で結婚の大事さや、愛の必要なことを習っただろうか。
道徳は習った世代はいますね。道徳は「人と一緒に居続けるためには」というマナーを
身につけられます。
いや、なにも「学校で習わないことは知らないこと」云々でもないんですよ。そーゆーのは
いいんです。
ただ、なんかね、家族をもつ、とか、結婚、とか将来、次世代という言葉のことごとくが
「利害関係」をねちっこく突きつけてくる、現代のウスっぺらさにね、共感できる人なんか
いないと思う。
生きていきたい、生きることを続けたい、広く大きく、人と繋がっていきたい、という
心の泉の方から、わき上がる気持ちの萎える「いきものとしての、普通のこと」が
干上がってる。
子供は年金世代を守るために生まれてこさされても、育てられても迷惑だ。
よい就職をするために勉強させられても迷惑だ。年金が安定していることを目指させられて
生きてるだなんて、吐き気がします。残念です。
なんですか、このていたらくは。全然、人に力がこもってこないじゃないですか。
ええい馬鹿馬鹿しい。
生きてることが面白くなってこなくちゃ、生き続けるなんてのはつらいに決まってるんですよ。
分かりきってますよ。
だからなんなんだよ、ってもんです。
つらいからなんなんだよ!
苦しいからって、それがなんなんだよ。
だから上手にも、楽しくも、生きるってことが肝心なんだな、って信じたいのに。
未来への負債云々、言葉ばかりの愛。薄っぺらい話ばっかりごまんとあります。
毎年3万人のひとが救われない。それはそのままで、「将来は・・」を高らかに
うたうのは、「触りやすいものだけ、触っていきます」という、生き方としては無作法。
こういう時勢で、平常心を保つのは本当に難しいでしょう。
安普請に「愛」にすがろうと思うのは自然だけど、すでに疲労困憊している人の弱さにつけ込んで
いくようなもの、に位置しないでいて欲しいんです。
このごろテレビが見てて苦しい訳が自分なりにありまして、出てる人の顔つきに、
その人の人生が、刻まれた人がほとんどいないからなんだと思うんです。
綺麗すぎて、のっぺらぼう。
その人が垣間みて来たものや、苦心したものが、顔や挙動、言葉の選び方に出てくるときに、
観てるこっちの「浅はかさ」と対比して、埋め合わせるものを学ぶってのも大事よね。
まー、それが。埋め合わせようにも、観るべきものがない、ものを見せられてる気持ちに
至ってしまう。そんな風にテレビに期待するなってことですよね。はい。
だから常々思う。
人は人のために生きてるんじゃない、と。
家族は大事。愛する人が、今いる人は、それを大事にして。
自分の命以上に大事なものがある、って人は、恵まれた人なんだ。それは大事にして。
根幹は、人は、まず自分が生きてなくちゃ。
物理的に「生きてる」っていう現象、状態の「生きてる」って程度の話じゃなくてね。
心根の方が溌剌と、水際立つ姿勢に至ってること。
ずーーっとお祭り気分でいてね、ってんでもないのよ。ただ、根底に流れてるものは
軽妙でフットワークの利く離床感のある「ふわっ」としたものであれば、いざ自分のことでも、
他者のことでも、その気になった時に、フッと動き出せる出だしになれる。
このスタンバイが、「のりしろ」としてある人とない人では、全然魅力が違ってくる。
今、テレビもネットも、ちょっとひどいね。
人を静かに打ちのめすようなものばかりにあふれてきてる。
それを「いい」も「わるい」も分け隔てなくさらさせ続ける生き方が「フツー」になってる。
心が弱かったり、判断力の免疫がない人は、すぐに取り込まれちゃう類いの「つけこみ」が
どうも増えてる気がする。
私たちを次世代のためにも、前世代のためにも、使い込むための当て込んだ計算をするのを
今すぐやめてください。使い込みを世代を超えてする泥棒行為は犯罪にならないんですか。
今、生きてる人たちは、今生きてる人たちの持ち物だけで、やらせてください。
どーもアタマのいい人ってのは、そーゆートリックでしのぐことに長けてて下品なんだよな。
品がないよ、人間に。説明したってワカンネー頭の悪い連中をけむにまくことが上手な
人っていうのは詐欺師よりも規模が大きいだけに悪質だよ。逮捕監禁勾留してください。
若い世代の問題は若い世代に渡してあげてください。どっさりと荷物を詰め込んでたり、
渡す財布の中から先にお金を抜き出してるような泥棒行為をやるだけやっておいて、
「次世代を、未来を頼む」まで言い放つんだから、盗人猛々しい、っていうんですよ。
軽い状態で、走らせてあげなよ。
やめてよ。そういうの、ひどいぜ。
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