作成日: 12/02/02  
修正日: 12/02/02  

お茶と神様と拒否感

なんでもあり、でズレてしまってるんじゃないかしら


中国4000年の歴史云々・・ラーメンのキャッチコピーにもこんな具合の
言い回しのやつがあったように思いますが、そもそもずーっと連続してるというよりも
歴史の節目で、異民族が入り込んで来て、文化ごとごーっそり入れ替えてしまうという
歴史の積み重ね、が4000年分ある、という厚みのようで、ショックなのは
たとえば明の時代と唐の時代とか、時代間で「飲めるお茶」がゴソーッと変わっちゃう
くらいに、文化的にチャキーンと切り分けられてるっていうような説を、どっかで聞いた。
建物とかも、襲来した部族が、以前からいた人たちの建物を埋めたり、壊したりして、
まるきり仕立て直してしまう、ということの連続さが、中国の中では連綿と歴史となって
積み重なっている、という説も、どこかで聞いた。
だから日本みたいに、時代時代や、地域特有のお茶の類いが一通りそろってて、色々
飲めちゃうことはすごいことなんだよ、っていうような内容だったと思う。
へー、そーかーって思いました。

そーゆーのは日本ではあんまりないな、とも思ったんです。
時代の節目をいったんくぐったら、それそこまでに培ってこられた文化ごと、ごそーっと
否定されちゃうという、辛辣な、徹底的な「断絶」が、外国にはごまんとある。

これに似たショックが、「キリスト教」「イスラム教」などの一神教にも私は感じていて、
「神は唯一」という感覚が、日本人がフツーの育って来てると、感覚として分からないものになる。
外国の方が、「自分の神」を信じてる感覚が、日本人は「貴方はそれを信じてるんですね、ナルホド」
くらいのものであって、「じゃあ、私も信じてみようかな」くらいのノンキさで、触れて行こうと
する時もあるだろうけれど、向こうとしては「では、貴方が今まで信じて来た神は捨て去ってください」
と切り出してくると、大いにひるんでしまうと思う。
一神教というのは「あれもこれもあり」という発想を受け付けていない。もひとつ決定的に
欠けてる感覚として、「(私たちの信じる)神以外は、信仰してはならない」という、徹底的な
否定さが、日本人には欠けている。八百万の神さんのいる国である。弱った時に、都合のいい
神様のところにお願いに出て行ける国民である。「その他は、一切否定!」できる頑強さが
基本的に「備わっていない」のだ。

だから外国に日本人がいって、貴方の信仰は何か?っていう質問の、本当の意図が把握できないまま
「うーん、仏教かなあ」くらいの返事になってると、「何を信仰しているか」によって、ベースとなる
「生き様」まるごと把握するモノサシをもってる外人さんたちからすると、「なんなん?貴様ら」って
なりかねない。なりかねないけれど、日本人はそれでいいと思う。

つまり、「徹底的な否定」が大陸では起こって来ていたのだ。
文化ごと、部族語と、根絶やしにされ、「国」まるごとなかったことにされる、という歴史が
大陸では起こってきていたのだ。その感覚が、私たち日本人には、どこか緩く予感するくらいにしか
しみ込んでいないような気がします。

と、いいますか、こういうこと、もっとちゃんと教えて欲しいなって思うんですよ。
ちょっとスキをみせたら、民族ごと根絶やしにされる恐怖感を、言うともなしに備えもって
生きて来た人たちと向かい合う時に、人間としての覚悟の差がどうしても出ちゃうと思うんです。

「自分はこういう人物です」を初対面時に、なるべく簡潔に、正確に相手にねじ込んで
話しておくことが、結果的に自分を守れるし、誤解を受ける素地を潰しておける、という面で
外国では「アピールが大事」と言われるのであって、日本人の感覚としては「自分をうまく
表現しましょう」くらいにしか、思っていないから、のほほんと「そのうちワカッてくれれば
いいからネー」がすでに同列に並ぶはずがないんです。
「ガイジンさんは押してくるねー」くらいにしか感覚しないのです。そーじゃない。

反面、余計な気負いなしに国内にいる分には過ごせるんでしょうね、日本。
んん、まぁ、そうした話ではなしにですね、そうそう「なんでもアリ」のごちゃまぜ感覚で
生きてられる国ってそうそうないってことです。

正直、一神教の「根っこのきつさ」を知ったときは、ショックでした。そこまで他を否定
しなくちゃならないのか、ということに、「それで愛を説くのかあ・・・」ってスタートラインで
疑問がわいてしまったのでした。「疑ってはいけない」「まず信じなさい」が、ちょっと、私には
うまく馴染めないのでした。人それぞれです。