作成日: 12/03/30  
修正日: 12/03/30  

そうじー2

アンチがっかり・アンチしょんぼり


風水の本を読んでいます。基本的に、ワタクシという人格は単調に出来上がっているので
あっというまにこの手の本に心酔してしまいます。さて、今回なにに心が捕われて
おるのかといいますと、「そばに置き続けて(または、見続けて)いることで、
自分ががっかりしたり、しょんぼりし続けさせているものはありませんか?
それはあなたにとっていいものではないので、処分すべきです」といったフレーズでした。

こうした言葉に心が引っかかる時には、おおむね自分の側に落ち度があることを、薄々
気づいている時です。ここ最近はけっこう調子が上がってきていると思ってるがゆえに、
「それでも体が重かったり、いろんなことに足が重いのはなぜかしら?」と乗り切れない
自覚があったものです。原因は周りではなく、自分だなとは思ってたので、なにかが自分の
中から「遮(さえぎ)る」働きかけをしている、と直感してました。

かといって「ガッツ」だとか「根性!」「気力!」などという、得体の知れない追い込み型の
追い立てでは、自分自身長続きしない予感があるので、そんじょそこいらの、ここいら近辺の
短いスパンの頑張りで済ませない工夫が要るとも思ってました。
若いうちはそれでできることもあるでしょうが、そこそこ年配なので、あとあと修正せな
あかんようなしくじりに、時間を割くのもいささか躊躇するお年頃です。

そこで身の回りのいらないものを一掃しはじめました。それはまず「目につくもの」の中で
いらないもの、見続けてると、モチベーションの落ちるもの、を排除することからはじめました。
簡単に言えば「脱いだものをそのまま放っておく」だけでも、十分すぎるガッカリ感です。
視野にそれを何度も何度もいれるだけで、他に何かやっていける気力を「削ぐ」威力を
発揮しているのです。じゃあ、脱いだものを片付ける、ってことで解消するかと言えば、
するにはします。でも脱ぐ回数は、今後も何度もある訳で、結論としては「脱いだものを
しまい込める場所」「しまったままではなしに、確実に整頓し、収納し続ける仕組み」まで
完成させて、ホッとするわけです。

目に前から抹消すれば、一安心、みたいに思い込もうとする節が人にはあります。
けれど、「しまい込んだ自分」はそれをけっして見逃してはいませんから、潜在的に自分の中では
がっかりポイントを貯金しているようなものです。
「見えなくしちゃう」とかいうように、知覚出来ない状態に持ち込むことがゴールなら
それでもいいんですけど、前述したように「なんか、こう、上手くいってない」自分を
ナントカするための整頓ですから、「ナントナク、ガッカリしつづけてる理由」を喝破する
自分に達しねばなりまセヌ。ゆえに、「見えない」「見せてない」「忘れたことにしてた」部分の
掃除に、俄然やる気を発揮しはじめたわけです。

何年も開けてない倉庫の荷物をもりもり開けました。捨てる基準、排除する基準は、上に
書いたように「見てるとがっかり、しょんぼりしちゃうもの」ですから、懐かしかろうが
レアだろうが、がっかり・しょんぼりポイントに加算されるものは、ことごとく捨てました。
「高校時代に買った三脚の足」だとか、もう着ない服、もう聞いてこなかったCD、もう見返さない
ビデオなどのように、倉庫の中には「私の記憶」と連綿と繋がる「今は不要なもの」がワンサカ
ありました。

そうは言っても、26歳の頃に火災に遭ってますので、持ち物はおおむね「火災前」にあったものと
「火災後に買い足したもの」に2分される事情が私にはありますので、意外に捨てることには
躊躇がありません。
ホイホイとごみを出したり、リサイクルショップに売ったりすると、これが不思議なことに
「軽い」んですよ、心持ちが。

日々、自分が「何かを持ってる」と思っていても、その実「心が囚われる」ことも多いようで、
うまくいかなかったり、スムーズさのない生き方に至ってたというときには、おおむね
「囲いすぎてる」と思うといいかもしれません。
それは「これから」を過ごしていくにあたり、「進ませにくくさせてるもの」を自分の中に
残し続けてることに自覚的にあることです。
囲い持ち続けることで、自分の足取りが重くなったり、次の一歩を「あきらめる」に値する
ものであるなら、その停滞ごと受け入れればいい。それは「事態」も「心」も「物理的な環境」も
まるまる滞りを見せてくれるでしょう。

持たねば持たぬで、足取りこそ軽いものの、そのフットワークと引き換えに「捨て続けてる生活」にも
自覚的になるでしょう。
人には容量(キャパシティ)に限度があるので、余地のある分しか入りません。質のいいものをそろえ、
「どんな『次』にも応じて走り出す」ってことは、準備のいるものです。

いつも住まう部屋にそれはすでに発露してるもので、綺麗になってる部屋は「どんな次」にも
応じられるスタンスを生んでいます。これを単純に「整理整頓」というかけ声で解説を省きすぎて
います。道徳の問題、という「理由なき行動」へ持ち込むよりも、片付けることの利便性、将来性の
スムーズさを説くべきじゃナイノカナーって思うんです。