作成日: 12/04/30  
修正日: 12/04/30  

もやんもやん

畏怖なのかも


なにかはじまるみたいだ。

なんか自分の周りで色々動き出してる。
やってきた掃除の成果かな。部屋にいるとなんかこう、獏とした不安のようなものに襲われる時があって、
連綿と続けてきたものが、少しずつ、終焉に向かっている。
それそのことが怖いのか、それとも、新しくなにかを持つための、キャパシティの確保なんだろうか。

もうちょっと前なら、「今じゃないもの」になることが、もっと極端に恐怖だった。
「自分の思い通り」から外れることも、不幸なんだと思ったし、嫌なことだとも思った。

失うことは、いつも、なんでも、怖さを覚える。
自分のもの、なんて体も含めて「借り物」ばっかりな訳で、思い通りになんかなりやしないことが
前提なんだけど、どこかでしがみつこうと試みる自分が分かるようになってきた。

もうひとつ。
今の自分は、かつての自分が怖がってしまった感情から「決めた」性格の部分がとても大きくて、
随分長い間、私はそれに振り回されてしまった。いや、この言い方は正確じゃない。
「自分でそれでいいや」って決めたずるさに乗っかった。
一方で「でも、いずれ・・」と予感したものは、的中する。目を閉じても、耳を塞いでも
自分以外ってものと、一緒に生きてるんだから、自分を放っておかれてでも、事態は進む。

じゃあせめて、と自分が関与していく、なんていう消極的なガッツで、ことにのぞめば、
結果もやっぱり原因相応なものにしかならないだろう。
乗り気じゃなかったんです、で生き始めることと、最初から楽しんで乗っかることは、
行き着く先が違う。

これは知ってる感情だ。
かつてはもっとこんな「ないまぜ」な感情にうろたえ、悶え、翻弄された。
もうちょっと、別の見え方もできるようになった。
未だに結果を見通せる思慮は得てないけれど、つまり昔と同じくらい怖がったまま「新しいこと」に
向かい合うことしかできないけれど、今は「それでもいいや」と思える。

自棄(やけ)になってるんじゃなく、他力本願になってるんでもなく、今までしてきた「いいこと」も
「わるいこと」も合流して、「いままでこうでしたので、一見つながりはなさそうでしょうけれど、
あなたが乗っかれるものはこれです」と提示されそうな予感がするのだ。

さぁー。
さー、混沌とするぞ。
ああ、そうか。畏れみたいな感じなんだ。
当てはまる言葉がなく、性格としては最も不得手なことなのに、いつもこれが、一番遠くに
連れてってくれる相棒になる。だから得手でも不得手でもかまやしないんだ。
「自分がどう思うか」よりもでっかい輪郭にうろたえていけばいいんだ。

どこかの本で読んだよ。人生は自分に準備の出来た分が放り込まれてくるんだって。
だから、受け取ればいいんだ。