作成日: 12/06/02
修正日: 12/06/02
わたしたちの不満の発祥源
勘、で書いております
夜中にふと目が覚めたりして、手元にノートパソコンなりスマートフォンがあったり
したら、電源をいれてしまい、SNSやらメールのチェックをしてしまうってこと
ありませんか?
数年前に比べて、きっと現代の私たちは「暗闇で明るい液晶を見る」回数を増やしているでしょうし、
「見て知ったことを考えちゃう」ということも増やしてると思います。
つまり、人という生き物たち、まぁことさら先進国の人たちというのはおおむね似た傾向を
持つと思うのですが
「目を使って情報をとる」ことと
「頭を使って考える」の回数が増えているんでしょうね。
目と頭ばかりが発熱する訳です。器官の中でも、酷使されるところはいつも同じところばかりで、
疲弊するのは目と頭、ってことです。昔の肉体労働のように「体全体を使って」というよりも
「目と頭」という偏りが発生してると思います。
先進国ではスペイン辺りは失業率が30%に近いもので、全世界的には先進国の失業率は
10%を越えるそうですね。世界の人口は増えているものの、仕事の本質そのものは効率化が
進んでいますし、年配者の既得権益を「譲らない」上に「長生き」が重なっています。
若者に仕事の巡ってくる仕組みがじゃんじゃん減っていくことははっきりしてますけど、
どこか「従来通り、若いうちは働き続けよ」なるうたい文句のような、シュプレヒコールのような
ものは漫然と「そのまま」で、モデルチェンジなしで突き進んでますので、ミスマッチは
延々続く訳です。
それを「目で読んで、見知って」「頭で考えて」ばかりを強化した人たちでやいのやいの
議論しようとしたら、不平不満がでるのは当然のなりゆきとも言えます。
と、私があおったところで世界は良くはなりませんが、ただやっぱり「目と頭」ばかりを
酷使してなくちゃならない環境は、どうも貧相な結果にしか至れない感じがして仕方ないのです。
小理屈ばかりが増長して、どうも幸せな方向に足が向いてる予感がしないのです。
人としては「片手落ち」な感覚でしか、情報を入れてもいないし、出してもいない。
「人間がはつらつとして」発したものであれば、少なくともそこに出現してくるものは
人のぬくもりをはらんでくれるような心持ちがするのです。
IT世代とやらなので、じゃんじゃん情報が入ってはくるのですが、それを自分の中で
醸造して、発露するアイテムも、同じくらい多彩であってくれなくては、ぎゅうぎゅうと
詰め込まれるばかりの袋のようなものです。溜め込んでも捨てるだけにしかならないんじゃ
やりきれない。
こうも考えたんです。
人は目、耳、鼻、口、肌で「見る」「聞く」「嗅ぐ」「味わう・話す」「触る」といった
器官を総動員して、自分から、世界へ情報をつかみにいくことができます。できます、っていうか、
普通に生きてるだけで、テレビでもラジオでも情報をじゃんじゃん流し込んできますし、
日々会う人、やってる事柄から周りの様子、調子などの「自分の周り」がどんどんわかって
きてしまいます。
その一方で「自分の中」に向かう器官が、「自分の外」に向かってる器官の数に比べ、
断然少ないのです。内臓の調子、とか医療機器を使えば、「自分の中」をいくばくか
知ることも出来るでしょう。でも目が見て、耳が聞いてくれる程に、外に向かってやってる
「情報収集」が、いざ、自分の内側に向かうにあたっては、器官そのものの絶対数が少ないのです。
強いて言えば「想像力」の世界でしょうか。
自分の心のうつろい、考え方の仕組み、落ち込む時の傾向等々は、自分で「その気」にならないと
状態を把握するのも困難です。基本的に放っておけば「分からない」類いのものになってしまいます。
ゆえに、わたしたちはほとんど「外のこと」ばかりがじゃんじゃん詰め込まれて、
肝心要(かんじんかなめ)の「外からやってきたものを咀嚼する」という、「自分の中の仕組み」に
すっかり無頓着なのです。食べ下し、飲み下しこそが、一番肝心だってのにね。
根性論でも精神、観念の話にもしたくないんですけれど、ここ最近の悲しみや不幸は、
どこか人おのおのが「じゃんじゃん生み出してる」感が強く感じられるのです。
津波とか、地震などのように、自然災害などの、圧倒的な人への蹂躙はたしかに不幸なものです。
それでも天災そのものにはなんの恨みも意思も意図もありません。津波や地震が人に加えてくる
苦しみの本当の本質は、目で見、頭で考えたあとに、激しく傷跡を深くしているように思うのです。
実際に「起こってる」ことよりも、「起こったことの捉え方」こそが、それの方が、人を
深く傷つけている。起こったことは、取り返せないし、取り戻せない。だから心のどこかで
「仕方がない」とも感じ受けている。でもそれを、それだけに「済ませない」のは人の心の方であり、
「なんでこんなことに!」「なんにもなしでは済まさせない!」という気持ちが、「実際に起こったこと」
以上に、何度も何度も人の心へ波を打ち付けてきて、それは寝ても覚めても波状攻撃を仕掛けてきて、
取り留めなく、しかも容赦なく同じ傷跡を深く掘り下げてくる。治癒する前に、同じ傷の形をなぞらえて、
何度も何度も容赦なく傷を掘り進む。だから癒えない。
自分で自分に波を打つ力となるから、いっそこれが傷つけてくるのが「他人」であるのならば、
せめて「弱点以外」にも攻撃がされたりして、妙な意味で「気晴らし」も発生する。
でも、自分が自分を攻撃する時は、非常にも、ダレよりも「弱点」を知り抜いてる自分なので、
一点集中に、モロミの、もっとも弱い弱点を責めさいなむことを、ひたすら繰り返してしまう。
他でもない、自分自身でこそ、隠してしまえたはずの部分が、もっとも自分で気づけてしまう部分に
なるし、「なかったことにしたい」と自分自信と強く約束を守りきれない限り、もっとも自分を
傷つけ続けてしまえるのは、最も残酷なのは、自分、なんですよね。弱点に最も容赦がない。
そりゃあ傷は深くもなります。四六時中、傷跡をなぞらえるのですから。
だからこそ、目と頭ばかりを使ってばかりの生活を、私は非常に憂うんです。
うまくいく生き方って、全然思えないんですよ。豊かな方向に向かってるって思えないんですよ。
こんなに目と頭ばかり使ってて、たとえ「いいこと」があったとしても、目と頭ばかり使ってる
人のもとに「いいこと」の方が喜んでいてくれるとは思えないんです。
このごろ禅だとか仏教だとかの本ばかり読んでたのは、もうちょっと身体感覚でも思考でも、
広く「つかまえる」感じって掌握できないかしら、いやいや掌握ほどでなくてもいいから
ふっくらとした感じで「生きてる」ことのうれしさを味わえる方法に触れたかったのです。
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