作成日: 12/09/25
修正日: 12/09/25
なんか、こう、ヒント
はっきりしない黄金律
お愛想で微笑まれるのがとても苦手なのです。そこでだけ、調子を合わせてオホホ、ってされると、
それが上手な人であるほど、私は弱ります。弱りますし、次回はありません、となります。
大事ですけどね、お愛想。お愛想でつながってられる人生程度の用件につきあうのもつきあわされるのも
嫌ですもんね。
この小理屈の上で、私のような小心者の「人脈」が細々と展開されています。人柄や経験値でもなく、
あれっ、なんでこの人と繋がってたんだっけ?ってことが多くなってきました。そうはいっても
自分の方からモーションかけてる場合も多いくせにね、なぜが初動の時の動機が思い出せないケースが
多いのです。
仕事でいろんなことを準備したりするんですけど、「自分がやってるから」と、自分の手前勝手な
「いいもの・盛り合わせ」をしてくる人が、いい仕事ができたことなんてほとんどありません。
いい仕事をする人は、おおむね「相手の方が要るもの」を掘り起こして渡してると思います。
もちろんこちらが関与する仕事を相手の生活・仕事のテリトリーにねじこむんですから、
それを「そもそも相手のためのもの」に感じ受けさせる、なんてな理屈は「だまし討ち」であるかの
ようにもいえなくもないですね。
いいもの、って思えたら、人とシェアしたいですよね。
一緒に喜べたらいいね!なんてなティーンみたいな心持ちで動けるほど、暢気でも人の良さもないので
たとえこっちが「世の中で自分で分かってる範疇での最良の話」を機会あるごとに叫んでいても、
聞いてくれてる相手のアンテナに、ちっとも「ピンとこない」具合であれば、スイと引き下がる訳です。
いいもの、に出くわせるチャンスって、少ないんですよね。滅多にないんですよね。
ゲーム世代なのか、このごろの人は「それその時にしかない」チャンスを「まぁまた縁があれば」で
ながせる人もいますけど、もうそこの分岐でつかんでくれないと、後、ないんですよね。
「そこでつかんで欲しかった」と、もう延々と重なる部分がなくなってしまう。
「近寄れもしなくなる」の想像力がない。
このごろ感じるのは人柄とか性格で「つながってゆく」人脈というよりも、「アンテナの立て方」の
んー、なんていうか、「合致の仕方」、んー「つかみかたの上手い人」とのコネクトが
回数として増えてきた感じがするのです。
一概に「考え方の似てる人」でもなくてですねー。
なんていうんでしょうねえ。
「え、この話にまんまとつきあってくれるんですか?」と、たとえ自分自身がフイにつきつけられても
躊躇したり、二の足を踏んだりするような案件に「いいよ」ってまるでコンビニにでもでかけるかの
ごとくの気さくさで参与してくれる人が、私自身に「見つけやすくなってきた」感じがするのです。
私がモーションかけておきながら、「え!乗っかるの!」って我ながら思う決断をしてくれる人。
好きですねえ。そういう人、大好きです。
そうなると、冒頭に申し上げた「お愛想で付き合う人」はおおむねこの時点で排除されるんです。
いっちょかみでオイシイ思いをしたい程度のイントロで入ってこられても、お互い消耗するばかりで
核心部分にまで話が行き届かないうちに、トンズラすることになる。ご自分で居心地を守れないまま
逃げ出すしかなくなってしまう。
なんかこういう書き方すると、軽薄なお調子者万歳みたいなニュアンスも生まれなくもないですけど
肝心要のオハナシは「パッとくる機会にガブリといって、走り抜く」センスのありようです。
誰彼でも構わない話なら、誰もに行き渡る訳です。そうじゃない。ある程度は洗練され、その人の
モチベーション、ソコジカラが「ある線」よりも長けたところに至ってるからこそ来た「話」なので
巡ってきた「縁」に食らいつくのも、ある程度人脈内での取捨選択がなされてるわけです。
縁故とも違います。チャンスそのものはけっこう何度も、幾種類も派生・発生しますが、
「その声がかかる」のは「その声をかけるにあたう」人に限られますし、あたうからには
相応の結果も出せる素質が備わってる訳です。
縁故だけで引き合いに出せ続けるほど、人生は暢気じゃいられませんしね。それだけに、
「ある見立て」で白羽の矢を立てられたからには、生かせるやり口を発揮してくれそうな
人に頼むってのが普通ですよね。
なんかここまで書いてたら、ハナモチナラナイやつみたいに自分のことが思えてきたんですけど
わかってます。私自身はなんら持ち合わせてない人ですから、気にしないでください。
私の今「見させてもらってる」世界の話をしてるだけです。そこで気づいておきたいヒントを
抽出したいだけなんです。
(決して私がいい思いを日々してるだなんてゆめゆめ思わないでもらってけっこうです。あり得ません)
「誰でもいい訳じゃない」ものが、いいものと出会ったときに、「予感」をたよりに、一種「鼻の利く」
感じで乗っかってみる、というのは、どうやら一般的じゃないんですね。
ある程度満足な生き方をしてる人も、ある程度「守るべきもの」を守れてる人も、まず乗りません。
冒険を犯して失うものの方が大きい、と「とっさに」判断してます。いい判断かも知れませんね。
だからそういう判断をしがちな人のところには、話も、噂すらも近寄らなくなります。当然です。
無駄骨を生み出すのも感じるのもお互い嫌ですものね。
ですから「いいもの」が巡ってくる時にガブリといくのは、一握りの人になります。
それそこまで「存在」すらしてなかったものが生まれでようとしてる時に、「そこにそぐう人」に
なっていこうとするのには、けっこうな想像力が要りますもんね。
リスク、といえばリスクなのかもしれない。でも勝算が量られてその「いいもの」が生まれつつある
時に「居合わせる」だけでも、その人の生き方のセンス、いいと思いません?
「居合わせる」だけが難しいんですよ。ちょうど、そこにいた、というのは実はものすごいセンスなんですよ。
創意工夫なしに「そこに居合わせた」人なんてのは、そもそも粗末に事態を扱うので、居合わせ続けられなく
なります。失うのが早いです。それでいいんです。ピンチの真ん真ん中で逃げ出さないでいた後に
宝の山があるかもしれないことを「見込んで」生きてると、ずるくなる気持ちが強くなるだけでしょ?
そうじゃない。無頓着に居合わせ続ける「馬鹿さ」にも、価値はあると思います。
いま、まだ、ない、いいもの に出くわすミラクル。
いま、まだ、ない、いいもの、に「そぐう」人に、ちょうど、そのタイミングで「居合わせる」こと。
他者に見込まれる実力と、ポンと出た機会を逃さないセンスと、居合わせ続けられた不断の「縁」が
混濁したまま自分に備わり続けてると、面白い生き方に遭遇しがちになると思います。
ですので、私が見てる「アンテナ持ち」たちの今後も相応に面白いなあって予感してるのです。
「乗っかるの?乗っからないの?ふーん、そう」って見てます。見守ってる人は、まぁ、見てて。
|
|