作成日: 12/10/09
修正日: 12/10/09
ことばのとりこ
大切にしないと、壊れます
「自灯明」って言葉が好きになりました。意味は自分で調べてください。
玄侑宗久さんの本「自灯明」で知りました。その本の59ページにこんな文があります。
「たとえば、青空に白い雲がある様子を、思い浮かべないでください」
どうですか。思い浮かべてしまったでしょう。
・・・・・OH!まんまとその通りです。その通りでしたよ玄侑さん。
続く文章にこうありました。
このように、「思い浮かべまい」と想うことと、「思い浮かべよう」と想うことは、
結果的には同じ効果があるのです。
・・・と。
反対のことを言ったところで、効果としては同じ力を持ってしまうそうなのです。
他にも道元さんという昔の偉いお坊様も、「言葉」の持ってる底知れない威力を侮ることなく、
慎重に向かいあうようにせんとな、的ことをおっしゃっていたようだと、本で読んだ気がします。
言った、言わない、という次元でなく、言葉にしようとしてニュアンスのようなものが
自分の心の方に芽生えてしまったら、抗いようもなくとっくに人は心とられている。
そのことにびっくりするくらいに無自覚で、スンと方向を変えてしまっているのもまた人なのだ、と。
あらゆることを「自分で決めて」進んできたつもりが、「自分が決めるために」信じきっていた自分そのものが
とっくにスピンコントロール下として配下である、その道具に「言葉」が噛んでたとは、ぬかったな、とか
思っちゃいます。
誰彼に誘導された、ってわけじゃないにしても、自分の思考より先に「言語」が意識野広範にわたって
影響させちゃってる、それを許しちゃってることにびっくりします。
このエッセイの3行目にある「たとえば、青空に白い雲がある様子を、思い浮かべないでください」に
対して無反応でいられる人っているんだろうか。これって知性ってあがめていいものかしら。
全然無抵抗な部分だと思わない?「なし」にはできないし、「反対!」を叫んでも意味がないし。
そうは言っても「こんなもんです、人」というおさめ方もいいかもしれない。
私は「たとえば、青空に白い雲がある様子を、思い浮かべないでください」に対して、
「もっと別の応じ方」が気になったのです。
ヨソゴトを考える?
はたまた、「青空に白い雲がある様子を、思い浮かべない」を、まさに「思い浮かべない」で済ます?
おおお?どんなよ?「思い浮かべない」ってどんなよ?空白?虚無?ゼロってこと?ゼロでもいられないの?
と、まぁ言葉ってのは随分つかみようのないものを扱う「道具」でもあるわけで、ワカンネーは
ワカンネー、で済ましてもいいと思うの。そういうおさめ方しか私にはわかんないのよ。
「それじゃいけねえ!」ってイキリたつ人もいるかもしれないけど、まぁここで書きたいのは
言葉の虜っぷりってのから、脱却するなり、客観視できる方法があったりするなら、どういう
アプローチなんだろうね、ってことなんです。
このごろ、沖縄のオプスレイとか、諸外国との軋轢をニュースが報道してるんだけど、
スピン報道が多すぎて、もっと言えば言葉の粗雑な乱用がひどすぎて、正直滅入るのよ。
そんな風に言葉をたきつけるように使わないで欲しいな、と。
なんせ言葉そのものの向こうに、「意図」が含まれすぎてて、素直に受け取れなくなってる。
裏がある、って勘ぐって生きていくのが情報リテラシーよ、って言う人もいるだろうけど、
こんなふうに言葉を毎日新聞でもテレビでも乱用されてると、「言葉」っていう道具を
忌諱(きい)する人の方が、自然だと思うんだよなあ。
疎(うと)んじちゃうよ。めぐらされた意図が臭いよ。ぷんぷんにおうよ。
そんな会話に「面してる」だけで、毒が出てくるよ。そう、言葉って、毒にもなるから。
本来の澄んだ意味合いだけを含んだ、綺麗な「言葉」はもっと平易で、やさしい感じを受けます。
戦略を含まない会話には、ゆるやかな空気が流れます。
意味がある、だとかない、だとかに執着してさ、正しいだの、正しくないだのといきりたってさ、
「言葉のあや」の手合いでノタクタやってるだけの人っているじゃん。なんなのあれ?全然意味がない。
言葉で辛辣にいいくるめたところで、やっつけたところで、なんなの?あの実利のなさってものは。
虚無感ったら。無意味さったら。「言葉」ってものに、存在として「負け越してる」ところに立って
過ごしてることは少しも恥ずかしくないの?口ばっかりじゃん。なんなのそれ。どんな価値があるのそれ?
言葉とかゲームとか、脳内での溌剌とした、闊達なやりとりは刺激的かもしれないけれど、終わってしまうと
案外むなしい。残ったものが、見当たらない人は、いよいよ「むなしさ」ポイントの貯金がたまる。
無害ではないのだ。毒はでてるし、きちんとたまってるし、いやむしろ言葉の毒は数年にわたって
解毒されずに、その人の人生も左右する粘着性の猛毒でもあるのだ。
「それに囚われないでいる」ことこそが、すっごく難しい技量。たいてい、自分とか親とか仲間とかの
言葉の上で人は生きて過ごすんだから「無影響」でいられる人はいないでしょう。いたら奇人の
扱いでしょう。
言葉にスピンさせられたり、他人をスピンさせちゃったり、どっちも嫌だな。
意図のある言葉は、やっぱり汚いし、それを無意識に、縦横無尽に使えてる人も、嫌だな。
それだけに、澄んだ言葉を使える人、澄んだ言葉を選んでる人の生き様の綺麗さに敬服します。
稀にいます、そういう人が。どんなに入り組んだスピンづくしの天才さんがいたところで、
無垢な澄んだ言葉の前では、激しく無力になるんだよね、シンプルさの前にはボロが出る。
品のある言葉で過ごしたいのです。お互いに、です。
心の荒みようは、言葉の品のなさ、つまり人としての品のなさから、スルリと流れ出るのですから。
まー、言うほど、言葉きれいじゃないんですけどね、私。
雑な「言葉」とか多いじゃない。
「説明したい」とか「理解を求めたい」とか、「押し付けといて逃げ出せない」言葉を使い続けて
「分かるまではねじ込み続ける。金も付ける。文句は言うな。分かった、とだけ言え!」が
「理解を求める」って言葉の意味なんでしたっけ?違うよねえ?それって話し合いじゃないよねえ。
恫喝だよねえ。この上で「話し合いを続けましょう」と重ねたら、ひどい暴力じゃない?
イジメじゃない?大人がやってますよね。だから自殺する大人が3万人毎年いても、減らせませんよね。
当たり前じゃん。言葉に品がないからです。大事にしないものは、なくなりますよ。
品がなくなると、長持しませんよ。およしなさい。
ことばを上手に使いましょう。人と、人の間に「見えない」ものが伝播できるとしたら、それは
「ことば」を使って、「ことば以外」のなにかがふんわり相手に入る時です。
だから、道具以上に期待するのはやめましょう。暴力のように使うのもやめましょう。
「ことば以外」になって、返ってくるかんね。覚悟しときな。
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