作成日: 12/10/28  
修正日: 12/10/28  

8ミリカメラZC-1000の話

好きすぎて、当たり前すぎて


劇場でかかる映画もデジタル化してきて見劣らないほど、綺麗になってきた。こうなってくると
もうフィルムで上映する必要がなくなってきますね。レオス・カラックスですらデジタル化の
さなかで撮るのもやむなし、みたいなこと言い出す時代に片足突っ込んでるんですね。

「映像学科」卒、が最終学歴になってるから、映画の勉強をしてきた世代の末裔なのです。
事実、映写機もカメラもスプラーサーもレフランプも「稼働する」状態で今日までいますので
撮る気はまんまんなわけです。撮影勘は甚だしく劣化してるでしょうが、まだフィルムのニュアンス
体に残ってくれてます。

フィルムとビデオの決定的な違いはなにか。
フィルムはほら、昔のクランクシャフトでぐるぐるまわして撮る時代のカメラがあったように、
「フィルムに光が当たりさえすれば写る」んです。つまり、フィルム送りさえできれば、
電気が不要、ということです。化学反応でフィルムに定着させるので、手回しでも、電動モーターでも
フィルム送りさえできれば写る、というのが私にはたまらなく好きなところです。
極端に言えば、核戦争が起きて電気が遮断されたさなかでも、フィルムカメラがあれば、電気が
なくても記録は残せる、くらいの羨望感でフィルムを見てるのでした(もちろんそんな状況では
インフラも破壊され尽くしてるでしょうが)。

ビデオは「電気」の力で記録媒体に残していくものなので、電気がなくてはまったく動きません。
一眼デジカメがこんなに普及してるのに、ビデオカメラってどんどん衰退してるジャンルなのが
なんとも印象的です。

コダック、富士フィルムと、フィルムメーカーが倒産、撤退、生産中止と突き進む中、案の定
8ミリフィルムは入手が極端に困難になりました。ネットの時代ですから、いくばくかの
「頑張り続けてくれる」人たちの手で、入手は「不可能」ではありませんが、かつての
「町のカメラ屋さん」で8ミリフィルムのカートリッジを買うことは「不可能」の領域ですよね。
そもそも「カメラ屋さん」そのものが廃業してたり、シャッターがあがらないまま、商店街に
残ってたりします。

私はZC-1000というカメラを持っています。何度もエッセイに書いてきてるので、おうおう、またかよ
ながや、ボケてきたんと違うか、って思う方もいるでしょう。
いまや、シングル8カメラは前述のようにフィルムの入手が難しいので、事実上「クラッシックな
オブジェ」にしかならないようにも扱えます。

私がこのカメラを手放さず、愛おしいのは、このカメラが私に感じさせてくれてる「万能感」は
他の何にも、いまだに置き換わらないからです。
交換の利かない感情です。ZC-1000を仮に手放したら、ちょっと「オカシク」なると思います。

コマ撮り、逆転撮影、スローモーション、多重露光、OL、もうなんだってこのカメラは
できちゃうのです。やりたいことが、このカメラの機能に詰まってて、このカメラでできないことは
「別にどうでもいいこと」に部類されちゃうので、やっかみもねたみも生まれようもないのです。
このカメラは「使い尽くす」ことがとても楽しいカメラでした。使い手側が、どこまで凝りたがるかで
発揮してくれる威力も倍々ゲーム的に飛躍してくれました。昨日今日の「カメラ小僧」にも
撮れないことはないですが、このカメラが引き上げてくれる、ある高みで撮影をすると、映画作品
そのものが、激しく品位をあげました。全然同じ8ミリフィルムで、たどり着ける所が違ってしまうのでした。

カメラマン、って「自分」で撮ってても、どこか「意外な結果に驚きたい」ところがあると思います。
現代のデジカメにしたって、いいカメラを使ってると、明らかに自分の技量以外のナニカがベクトルに
加わって、ひとつかふたつ、高いレベルの品位に、写ったものを引っ張り上げてくれてたりします。
ZC-1000はそれが極端に結果に出ました。私の技量、思惑以上のものを、機械が送り込んでくれるショックは
未だにこのカメラで体感した以上のものを、感じていません。

言いたいのはZC-1000フェチ、ってことではなく、こうした自分自身への高揚感に繋がってしまうような
機材が、人生の中でもあんまり滅多にないってことです。「この一台で100人力!」みたいな
万能感、アイツにあのカメラ渡しとけ、みたいな機材って、よっぽどのことだと思うんです。

そーゆーわけで、ZC-1000が未だ私の部屋にしまってあるだけで、もう幸福なのです。
そして心の奥底では「いつか、絶対使う」が、全く揺らいでないのも分かります。
フィルムもないのに?
はは、違うんだって。そーゆーんじゃないんですって。(ムカつくな、この言い回し)
フィルムなんてあろーがナカローがいいんですよ。この絶対的な存在感が、こっちを安定させてくれるんです。
ですから、まだ狙ってます、Cマウント「広角レンズ」。本気だよ。もちろんZC用のやつ。




今なんでわざわざZCのことを書くかを、敢えて書きます。
学校を出て、中年の域に人生を突入させた同輩諸子が迷いはじめたり、狂いはじめたり、
人生は「学校を出るまで」にしてきた勉強なんてのじゃ、およそ人生の半分もしないうちに
「過ぎ去る」ものたちもろごと、無為になってしまうことを痛感しています。
世の中の流れの激流にあっては、「習ってきたこと」なんてのは、人生中盤で霧散します。
それそのものは役に立ったなくなります。まずこれが前提です。

「どうせ無駄になるもん」を勉強してたのか、こだわっていられたのか、とガクゼンとする人も
いるでしょう。無駄になるなんて分かってたことじゃん、って人もいるでしょう。

そーんなこと、ないと思います。
無駄なんかじゃないと思います。

みんながどー言おーとかまいませんが、私はこのZCに感じてる感情に替えが利かない限り、
この言い分をねじ曲げないでしょう。

ちっともこれに勝る感情に出会ってません。欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて、生活費削って、
寒くてひもじくて迷って焦って全然わけわかんなくなって買ったカメラでした。
自分のいい時も悪い時も、撮影しててくれたカメラでした。自分にも他人にも頼りになる相棒でした。
12月の大阪の平和寮6畳一間で、タカラヤで食パンの耳かじってたって、うれしかったですよ。

今、同世代諸子は人生で中堅に位置するお年頃ですよね。
自分よりも守らなくちゃいけないものがあったり、身勝手に放り込まれてくるものに対峙したり、
負け越したり、翻弄されてるばっかりの人生ですよね。悲しいですし、つらいですし、
でもウレシーもタノシーも、そこそこあるんですよね。

も、全然別個すぎる人生のまま突っ走れたら良かったとも思うんだけど、ネットの普及で
やれSNSだ、メールだ、ブログだと、お互いの状況をそれとなくわかっちゃう時代に入っちゃいました。
この利便性の良さがあだになって、なにやってたってそこそこバレちゃうもんだから、あんまり格好付ける
こともできやしないよね。

それがゆえに、みんな似たような「言い切れぬ重さ」や閉塞感と向き合ってる感じがここ数年
強く感じています。お互いに離れてるのに、そこそこ分かっちゃって、なのに全く別の場所で、
全く別の案件で苦しんで、全く手が出すに出せないでいる。この悶々さ、悶々さがガンガン積もるよ。

昔のようじゃない、ってときどきコメントしてくれる人もいるんだけど、みんな昔のまんまだ。
思った通りの方向じゃない、って人もいるだろうけど、そんなこたぁないよ。
あのとき、ああしてて、今が、そうなら、そいつが最善だったんだ。
迷うこともうろたえることもない。全部受け取って、なんとか飲み下す。なんとか、なんとか。

少なくとも「肚のそこからクツガエリきった」輩は誰一人いない。(そーゆーひととは繋がっても
いないだろうけどね!)いつも通り、元通りの人柄が、日本や世界のあちこち、ってだけで、それそこに
「ぽん」と居るだけのことだ。昔よりも人生にぶんぶんされてるけどさ、そんだけのことだ。
不思議でも不幸でもない。生きてれば、当然そこに来た、って思えばいい。

ZC-1000って言ってるけどさ、そこに見てるのは、そこをくぐって見えてくるのは、
「あんときもシンドかったけど、今とどんだけ違うってのよ?」ってことくらいだ。
そう大差ないよ。ない、ない。

あんときゃ良かったって?
いーや、そーでもないと思うよ。うん、そーでもないよ。ねえ?