作成日: 12/11/29
修正日: 12/11/29
心と体のモノサシ
またはバランス
お風呂桶にお湯をなみなみと入れて浸かるのは気持ちのいいことです。
今の部屋に引っ越してきてから、風呂桶が大きくなりましたので、冬場になると
案外冷めるのが早いことに気づきました。そこで天蓋をチョイと乗せるだけで、
けっこうぬくもりが保てるのが肝心と思ったのです。
標高が1000mを越える辺りでお湯を使った料理をしていると、なんだか冷めるのが
早いのか、気圧の問題で具合が違うのか、「いつものように」調理やお湯のサメ加減が
いかなくなることにも気づきました。あんまり毎度調子が狂うので、そうか、この辺りじゃ
私の持ってる「いつも通り」の感覚の方がいかんのですな、と切り替えに入る訳です。
さて、これが体の話になると、もう少し違和感が出てきます。怪我や病気をあまりしないで
過ごしてきたひとほど顕著だと思うんですけど、年を召してきて「体が思うようにならない」
とか「衰えが出てきてる」のを「疲れてるのかな」で納めたがる心理って働きますよね。
「自分」という認識は、「心」と「体」でできてます。ふたつは生まれてから一緒に
育ってきてますので、どっちも「自分」なんですよね。
それが怪我、病気、事故、衰えなどで、従来機能十分だったものが、思ったように
いかなくなると、「心」の方は「いつものように」の延長上で働きますから、「体」の不調を
「そんなはずはない」と叱咤します。やれるよ、大丈夫だよ、となだめたり、すかしたり
します。
「体」の方は、「自分」でもあるんですけど、「もの」でもあるので、衰えるんですよね。
機能が、できることが、時期によって変化するものです。若者のうちは成長ばっかりで
維持だとか、大切にしてもしなくても体は体、としか思ってませんが、もろもろの事情で
体が「心」の言う事を聞かなくなった時に、はじめて「自分」の「体」だって、「もの」だったのかと
思い知ります。
それ、そこまで「当たり前」だったものは、突然「当たり前じゃない」になるのでした。
持ってて当たり前のものは、自分では「当たり前」とも思ってません。それまで含めて「自分」な
わけで、わざわざ「当たり前で、あ~る」と認識もしないでしょう。そろって、きちんと機能して
「それが普通」なので、動かなくなったり、思った通りじゃいかなくなってきて、
「あれっ?これって思った通りになるもんじゃなかったの??」と焦り出します。そして
「自分」であった「心」と「体」のうち、半分を占める「体」が「自分のものではない」ことに
気づいてきます。
ご年配の方は時にお分かりだと思うのですが、「自分の体と、つきあう」のだと思うのです。
この言い方は、「思った通りにはいかない(体)になったところで、放り出す訳にいかず、
取り替える訳にもいかない。しかも、その(体)の中にしか、この(私)という(心)は
住まう場所もなく、かくなる上は(体)がどのような状態になろうとも、つきあいきる」覚悟を
持つ他にない。
若い人にはこれがない。
体は言う事を聞くものだし、少々の無理を聞いてくれて、酷使し、限界以上の無茶にも応じる。
ご年配の方のそれは逆になる。「体」の許せる範囲で、「心」が生きる領分を加減し始める。
片道1車線の道路をわたりきる、だけが「命がけ」になることを若い人は分かるだろうか。
横断歩道まで遠回りをさせるほど、老人に体力気力が備わってない時に、目の前の
横断歩道のない道路をわたる他ないと、体と心が相談して、みすみす危険と分かる
片道1車線の道路を「命がけ」で渡るおじいちゃん、おばあちゃんは、それが「体」の
限界なのだ。「心」はその限界につきあい、折れ、つき従う。
体も心も「オレサマ」な若者は、その車線を車でびゅんびゅんカッ飛ばして走ってゆく。
ぎらぎら生きてる人が車で走り抜け、ゆっくりと生きることにした人の方が臆したように
その道路をみやる。
体、は、もの、なので、大事、にしないと、壊れる。
大事にしないと、人生の終盤は早まり、機能の低下を早めに請け負う。
手入れをするなり、鍛錬するなりをしないで、「長持する」とたかをくくれる人は、早めに
不調にでくわしますよ。
だから、ご年配の人と、若者は「別の生き物」なのかもしれない。
ご年配は「もの」の「体」の調子、限界を気遣いながら、日々の買い物一つでも移動できる距離、質を
加減して、「心」がそれに添う。添う他に選択肢がないのだ。だからこそ、「若さ」の威力が分かる。
無駄に若いことをうらやむし、まぶしく見える。かつて誰もが「若さ」を経由しているのだ。
それがゆえに「体」の「自分からの離反」を口惜しく思うのだ。
一方「若い」人は心も体も分け隔てなく「ずっとこれからも、自分」という認識しかなく、
体が思うようにならない「もの」としてつきあっていくものとは、健康な人だとまず思わない。
「体」は「もの」ではなく、ただの「自分」でしかない。「体」が言う事を聞くのは
「当たり前」なので、感謝もないし、オーバーチューン気味に生きるだろう。
冒頭のお湯の話、標高の高い所での料理の話に戻るんですけど、「自分の当たり前」が
モノサシとしてあんまり正確じゃなくなってきたな、って自覚できるかどうかって大事なとこよね。
年を重ねると、「自分」というモノサシを「若者から年寄りまでのどの辺のヤツを使うか」が
選べるようになってくる。若者に近いモノサシを使って生きれば、体は悲鳴を上げるでしょう。
ご年配すぎたチューンのモノサシを早々に使えば、間違いなく老け込むのも早くなるでしょう。
ここに人の心の方の柔軟さ、というか、強靭さが試されてくると思います。体と心のバランス加減の
巧みさがないと、「今生きる」ことがアッというまに困難になったりもします。
体ってのは内臓が壊れようが、足が動かなくなろうが、生きるってうちは、それにつきあうってことであって
それ以外がないのだ。「じぶん」は「心」と「体」だから、そのどっちもに、死に際までお世話になるって
ことだもの。手入れを上手にして、両方がさほど窮屈に感じない落としどころに、スイと入れる人は幸いです。
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