作成日: 12/12/02
修正日: 12/12/02
劇場版のエヴァンゲリオンとテレビ版のエヴァンゲリオン
ふくやまけいこ先生作品との比較。はっ、ふくやま先生エヴァンゲリオン描かないかなあ
すごいね、密度の高さっていうか、凝り方の部分というか、「そっちに走りますか!」っていう
切り込み方が少し狂気が入りはじめてますよ、エヴァンゲリオン、つか、日本のアニメ。
気づいたら、こんなことになってた!っていうのかな。外国のどこも追いついてこない
日本の独壇場になってる。ディズニーアニメが「どーしても好きになれない」でいられる
クオリティです。(ディズニーのあの人種を描き分ける感じそのものがすでに差別感を
かんじるんだけど、なんでかな。あの感覚がどうしても体に馴染まない)
エヴァンゲリオンの劇場版ってのを見ててひとつ違和感を感じます。とってもクオリティの
高い、密集気味な作品です。人気も高いでしょう。
テレビで見た時ほどのショックにはどうしても届かないのはなんでだろうか、と。
一番変わったのは「絵のぶれがなくなった」ことかと思います。
大変綺麗です。密度も高いです。作り手のこだわりも感じます。
毎週放映するアニメゆえの苦労、がテレビシリーズにはきっとあって、外注した先によって
絵柄がどうしても修正しきれない回がテレビ放映のエヴァンゲリオンにはありました。
それを見てる側が「脳内修正」するという、「昭和のアニメ」の延長上にありました。
大ざっぱさを覚悟で言えば「一瞬、ド根性ガエルと並ぶ」瞬間が、テレビ版にはあったのです。
(ヒロスィ!)(京子チゥアン!)(野澤雅子!)(ゴリライモ!)
この言い方でいうなら、20世紀のアニメだったような気がします。つまり、ガイナックス側が
「ここまで」と思ったクオリティに届かない「制作サイドの事情」に突き当たった時に、
ストーリーや演出でねじあげるような創意工夫をテレビアニメ版には感じるのです。
そして駄目な時は駄目、という「へこたれさ加減」「作りっぱなし感」も「やっちまった感」
まで含めて「いいねえ!」となります。
劇場版は、平成の、「新世紀」なエヴァンゲリオンですね。大変繊細に、ダイナミックに
できあがっていますが、脳内修正する余地は少なく、必死になって見るよりも
買って手元に残す作品、に位置してしまいます。
昭和に生きた人にはビデオデッキもDVDレコーダーも買うまで難儀した記憶がありますから
「必死になって見る」は体験測なのです。脳内で「ここはへたれた作りになってるけど
うまくいってるってことでみなそう」とあきらめと、共犯意識で「作品に関与」しました。
カセットテープに録音、もありました(映像なのに)。
そう言う意味では作品というのはどこか見てる側を「共犯」に連れ込む余地があるといいなと
思うのはご年配だからでしょう。言ってみれば「見てる側こそのテクニックも求められる」、と。
ふくやまけいこ先生の「ゼリービーンズ」「タップ君の探偵室」を読み返しています。
今となっては絵柄も古く、キャラクター造形もどこか「腕が太く」洗練される前の
アニメ絵が広範に広がる前の「まんが」なんですけど、そこにこもる雰囲気や
スピードはその作風の中で「こっちの、こういう作品に本当はしたいの!」という
作家先生の「自分の希望に間に合わない表現方法の制約の中で、今作はぎりぎりここでしたので
こっから先はあなたが『みなし』でどうぞ!」という境界線に挑んでいて、読んでてうきうきします。
(昔はアニメ絵とまんがの絵はもっとセパレートな感じでしたものね)
いや、ふくやま先生はそんなことは書いてませんが、作風よりも志の方がうんと高い所を
見ているのがわかるので、読んでるこっちは「うん、うん、そうですよね、そうですよね!」って
作品世界の空気に「共犯」できるのです。アメリアの憤ってる感じとか、ポロポロのとぼけた感じ、
シザアラさんの「なんですか人がはなしをしてるのに」ってぷりぷりしてる可愛さとか
洗練されてる繊細な絵柄じゃ、どう転んでもたどり着けない微妙さが、そこにはあふれています。
エヴァンゲリオンのテレビ版のもってるはれぼったい感じの部分は、どこかふくやままんがに
感じた「そーじゃないのにぃぃぃぃ」っているじれったさを、ナントカカントカだましだまし
「クオリティ高そう」におさめたがる心意気があって、ぼかぁ好きだなあ。
もっといえば「フリクリ」劇場版やってよ、です。
P.S でも「ガッ活!」と「エヴァンゲリオン」のDVDが並んでたら10回中9回「ガッ活!」
見ちゃうと思う。100回中99回は「ガッ活!」みちゃうと思う。
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