作成日: 13/04/05
修正日: 13/05/04
超・大河原邦男展をば見ました
レジェンド・オブ・メカデザイン
燃えますなあ。燃えますなあ。大河原先生、そのままアニメの系譜にすっぽり入りますなあ。
兵庫県の県立の美術館が展示をしております、ってんで、行くのか行くまいかと迷いながら
寝付いたその日、朝3時に「行きなはれ!」とどこかのナニガシかの神がささやき、目覚め
「分かり申した!行きましょう!」となにと約束したのか分からないまま、翌朝7時過ぎには
アーバンライナーの切符買ってた。難波から阪神電車で20分、三宮から一駅JRで戻って
灘駅。歩いて南下して10分で、兵庫県立美術館です。
入り口にはシャア仕様のカラーリングの車と、キャンペーンガールがおりまして
「乗り込めますよ、いかがですか?」とやさしく案内されます。
大河原邦男先生。
知ってる人には空気みたいに「あってあたりまえ」のデザイン先生であり、ご存じない人には
とことん縁のない名前ですよね。むかーしむかし、ラジオでアニメックがやってた頃に、
大河原先生を扱ったパロディCM、録音したことあったっけなあ。懐かしいなあ。
日本のロボットアニメのデザインの根っこを押さえてる先生の一人です。
ガンダムでしょ、ボトムズでしょ、もうこれだけもうっとりしちゃいます。
美術館なのに、アニメが流れてたり、超合金っぽいのがショーケースに入ってたり、
お客様は8割方が「男性ひとり」、次に多いのが「カップル」でも喋ってる男性に対して、
無感情な目で過ごす女性が多く見受けられました。
美術性って意味では、ポスターを見ても、あんまりぴんとこなかったのですが、それでも
原画の鉛筆書きの「決定稿」をまのあたりにすると、そのほとんど装飾に走らない、シックというか
ストイックというか、シンプルなデザインなのに「重そう!」とか思えて来ちゃう不思議さ。
「アニメ向けの、子供向けの絵」なんかじゃなく、「いやぁ、実際こういうものがあるんなら
こんなふうなんじゃないかな」って「想定」したことを、まさしくデザインとしてまっとうした感が
原画から伝わって来た。
一方で、昨今のちまたにあふれた、いよいよ線の多い、立体物、ギミックたっぷりの
メカデザインがなぜ人々の記憶に残らないのか、と疑問がわいてきました。
大河原先生よりも多彩で多面で、凝って、のめりこんだメカデザインは、大河原先生の後ろにも
たくさんの行列ができる逸材で並んでるとは思うのです。
大河原先生の絵に感じたのは、アニメのためにデザインしてるけど、実は「立体になれるもの」を
デザインされていて、意外と決定稿前の原稿では「直線的」だったり、初期のガンダムのプラモのように
「ぎこちない、肩をすぼめたような直立姿勢」の方が、大河原先生の絵のフォルムからすると、
本来の絵柄なのが見てて予感されました。
ガンダムにしても、安彦先生のリファインされた決定稿が、現在僕らの知ってるガンダムであって、
ガンキャノンもガンタンクも決定稿前の大河原先生のフォルムは「プラモでつくっちゃうと、
ナーンか違うんだよなあ」っていうラインに近いのでした。アニメって言うより、プラモ向けの
センスで、デザインってものに立ち向かっている感じを強く受けました。
ボトムズ、ATのデザインなんかも、アニメにするには「ぎこちない」感が常に構想時分には
つきまとっていると感じました。
むしろ「タイムボカンシリーズ」のやられメカデザインのほうが溌剌としていらっしゃる感じすら
受けました。
でもそこに本質を見た感じもするのです。
現代の、アニメを見て育って来れた時代の人は、大河原先生とか、手塚治虫先生、石ノ森先生、
ダイナミックプロのメカの洗礼を受けずには大人になれていないと思います。
大河原先生の絵の根っこには「アニメにするには『ぎこちない』『不洗練』な部分があるからこそ、
アニメのためのデザインなのに、アニメ世界そのものに溶けこめきれない離反があるのです。
アニメなのに、ぎこちない。
でも現代のアニメ慣れした人がするデザインは「アニメに慣れすぎてる」がゆえに、大河原先生と
壁があるとも予感したのでした。アニメ好きなんてものとは違うとこから持ってこられたデザインが
根っこに感じられたのです。ふとしたはずみで、アニメのメカデザインをしなかった人なのかも、が
想像されちゃう具合の「距離感」があるのです。それがゆえに、「ゴーダム」の重そうなこと、
「マッハアタッカー」の変形シーンの説明の理路整然さと、かっこよさ、など、どこか従来の
メカデザインとの大きな溝がありました。
昔のロボットアニメは、それこそ「穴という穴からはミサイルかビームが無尽蔵に飛び出す」
「V字方のデザインがロボに外装されていたら、たいていブーメラン扱いになる」
「パンチは腕から離れて飛んでゆく」時代だったのです。そうでないロボなんてありえなかったのです。
でもザンボットの胸のVは武器じゃなかったようなきがしますし、ガンダムの額のVもビームも熱線も
出なかったのです。V!なのに!目から光線もでなくなったのです。大河原先生のあたりから。
きっと大河原先生の「ほどよいアニメからの距離感」がゆえに、メカデザインの大河原先生という
「違和感」さに魅力が深まったと思います。
アニメって、アニメしか見てこなかった人が作ると、なんだか行き詰まるんです。アニメが面白くなるのは
アニメとの距離がある人や、アニメから距離のあるものが、新参に割り込んでくる時に猛烈な光を
放つ気がします(私はね)。大河原先生の美術にはそれを感じた気がして、すごくうれしかったのです。
大河原先生の絵の根っこには、「裏の物置で、時計分解して面白がってる人の絵」があります。
だから装飾に凝りません。意味がないのです。意味のある部品で構成されてるのが「メカ」という
割り切りが予感されます。波で感じられます。
立体のスコープドッグ・ブルーティッシュカスタムを目の前にしたら、さすがに「いいわあ」とうなりました。
なんのかんのと、「目の前にしたら、うわああ!」っていうのが、大河原先生のすげーところだと思うんです。
ですから先生のデザインが実際「立体になっちゃう」ことの頻度の高いことそのものが「答え」なんだと
思うのです。
「もし、こんなのがあったら・・・うわあっ」ってガンダムでもスコープドッグでもやっぱり思いましたもん。
ここですよ。
デザインした人がアニメっていうよりも、「実際あったら」の方に重きのあることを、言外にデザインで
仕込んでる視線を、当美術館の催しに感じたのでした。
ほら、だって実際兵庫まで出向いちゃった私ってものは、大河原先生のデザイン見たさってだけで
動きましたもん。これがデザインの力そのものなんじゃないんでしょうか。原画見るに値しますよ~。
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