作成日: 13/04/08  
修正日: 13/04/08  

「見えない」だけで「すまない」

心がすこし、ひける


眼鏡をかけてみて、よく見えるようになると、それそこまでの間は、よく見えていなかったのだと
ようやく観念することができる。
見えてないときは「見えにくいだけだもん。ちょっと疲れてるだけだもん」としたがる心理に
どこか負け越してて、見えてない自分自身をだまそー、だまそーとしちゃうのでした。

ところがいざ眼鏡をかけたら、奥の奥、向こうの向こうまで、「精密に」世界が出来上がってて、
色もエッジも全然違う情報量で伝わってき出す。すると、それそこまで、自分の中に吸収
できてたつもりの情報量は、かなり手加減されたものであったことが、じっくり分かってくる。

あと、もう一つ気づくのが、知らず知らずに、自分が臆病になってたり、腰が引けてたり
してたことを、見えるようになってからようやく認められるようになるってこと。見えるまでは
どこか「根性論」が自分を制覇していた節がある。「なんとかなる!なんとかする!」が先行する。

や、なんともなんないんですけどね。見えてないんですから。

でも一方で「見えてないからこそ、なんとかしてきた」ものは、「ハッキリさせちゃうことで
駄目になる」ものもあるとは思いました。なにがなんでもはっきり見えてるってのは
ヨシアシだよなあ、って。

ご年配の人がおおらかになっていくのは、こうした自分の体の機能低下をさげすんだり
悲しんだりするのではなく、「受け容れる」姿勢ができてこその態度なのだとも思いました。
逆らおうが、ひれ伏そうが、見えぬものは見えぬ、と肚に落とす、これが難しいんだなァ。

人の五感、見るとか聞く、話すっていうのは、本当に楽しいものなんだなって思いました。
生まれながらの健常者は「それは当たり前」でスタートした人生だから、年齢を重ねたときに
「自分の持ってる機能が衰えるだなんて!」と愕然とするもんなのね。衰えるのは分かってるのに
自分は違う、ってどこかで思いたがっちゃう。

機能の一つでも衰えた時に、とたんに心が揺れますね。「え!」ってなりますね。
「当たり前」にしておきたかったものが、当たり前じゃなくなった時に、

なんで当たり前だなんて思えてたんだろう  って、
そのときまで自分が「立ち位置」を変えた視線から眺め直すことをするだなんて予定も
してなかったものだから、面白いような、寂しいような気持ちが混濁します。

実際「見えにくいなあ」と半年前から思ってましたが、思ったより視力の低下は
進んでいました。でもそのことよりも、自分が「思い切りが悪くなってる」ことのほうを
むしろ気になりました。「見えにくい」ということが、「見えにくい」という事実だけでなく、
「見えにくいから」と、「なにかあってはいけない」局面では無理をしなくなるし、無理を
回避する進み方を模索したりもしだす。傍目には「臆病」にも「慎重」にも受け取れるけれど、
私個人の感想は「思い切りが悪くなる」が「見えにくくなる」に直結してるなって思いました。

考えようだけどね。
「見えにくいので慎重に」でもいいし、「見えてないけど、このまま飛び込む!」でも
いいんだよね。何が起こってるかではなく、起こること、起こってくることに「自分は
どう応じた」が、動機になるんだもんね。見えにくい、はたしかに失敗しやくすくなりますね。
気も弱くなる。

だから眼鏡買いました。よく見えます。やっぱり心持ちが違ってきますわ。
単純?単純けっこう。