作成日: 13/05/07  
修正日: 13/05/07  

フォーカス

人生はピント合わせ




毎日見てるもの、が自分に影響を与えている、ってな考え方は賛同できます。
目の前にあったって、「見えてない」ものがあるように、人は自分が視界に入れてる
ものであっても、「見てるもの」と「見てはいないもの」があるように想います。

ここにいう見てるもの、っていうのは「視界に入ってたら、どうしても意識しちゃってる」ものであり、
見かけるたびに、自分の中にある「感情」を重ね持つことになります。
知らず知らずとしても、毎日毎回それを視野にいれちゃうように仕向けてるのも自分ですし、
知ってか知らずかによらず、その人は「どういう感情を自分に強くしてるか」はじゃんじゃん
動機づけとして、自分に躾けてるんだと思うんですよ。

ですからある年齢までは、人って「他者」からの教育やしつけを否応なく受け取らざるを得ない
期間があるとは思うんですけど、いい大人になってからは「自分になにを与え続けるか」は
態度として工夫も調整もできるのであって、そこでふて腐れたり、斜に構えた態度を誇示して
いられるっていうのは、ある意味「好きでやってる」ことでもあるって想いませんか。

巡り合わせが悪いことが重なったり、嫌なことが続くときだってあります。
そこまでを「好きでそうしてるんでしょう?」とはいいませんが、嫌なこともつらいことも
応じ方ですとか、流し方ですとか、「できること」はあるじゃないですか。
「真正面から受ける」ばかりで傷つくというのなら、そこに知恵を持つべきです。
知識、じゃありません。知恵・智慧、です。

自分が自分に招き入れることのできるもの、もしくは他人があなたに与えたくなるもの、というのは
それぞれの「意思」で自由にできますよね。その人に巡ってくるものが、その人に相応のもので
あるってなユダヤの格言を私は信じています。
巡りが悪いときは、今の自分にふさわしいものを与えられてるんだって思うようにもしてます。

そもそも、幸せすぎるものが与えられてるときって、人は随分「当たり前そうな顔つき」で
受け取ってるっておもいませんか?私はそう思ってます。もらってトーゼンみたいな顔をしています。
とたんに、潮が引くように、幸せっぽいものがすぅーっと引いていくと、かえって「分相応」な
心持ちがしてきたりもします。

なにが飛び込んできてるか、なにが去っていったか、にいちいち一喜一憂してるのが
疲れてくるんですよね。ある程度人生の駒が進むと。それではなしに、
「なにが起こってても、自分がフォーカスし続けるもの」の価値が、ずんずん高まってきてる
気がします。「なにが自分に起こっているか」「なにに取り巻かれているか」もたしかに肝心では
あると思うんです。でもそれはすべて「自分以外の、外野の事情」です。自分が「そうね」といって
とりこまなければ、それは外野の事情なままです。外野の事情ってもんは、自分で「その価値」を
上下させられます。大きく取り上げれば、自分に大きく影響を許し、無視すればさして大した
ことにはなりません。

今の自分、というのは、結局「自分がフォーカスしてきたものの集積物」です。気にし続けたもの、
気にしないできたもの、が累積しています。選んでいます。たまっています。

そんだけです。


それに対して「いいことないなあ」とか「いいこと起こらないかなあ」は、どうなんでしょうね、
ナニ見てるんですか、ってことです。
あなた以外のだれが、あなたのピントを合わせてるっていうんでしょう。
あなたのフォーカス具合が連続して、今のあなたってところに着陸し続けてるんです。
そこから見えるもので「これから」を見るべきだし、「そこから見えないもの」はあなたが見ないでいる
ものです。

新しい、どこかの、ナニカ
ってなものに、「本当は憧れてんだ」とか「思い切ってやってみたい」のであれば、
どこかからナニカがやってきたり、起こったりするのを待つとかいう、「正体のない期待」をするんでなしに、
「フォーカスし直せば」いいんですよ。それっぱかしのことです。
「日々目に入れてるもの」つまり生活環境に、身の回りに「なにを視界に飛び込ませているか」辺から
凝り出してみればいいじゃないですか。

誰と生きていますか?
どこで多くの時間を過ごしていますか?
なにをして、過ごしていますか?

もうここに原因であり、動機であり、結果がすでに集約されてると想います。
今の自分が、今のあなたの考え方が押し進めてきた立ち位置です。まずこれを観念すること。
その上で「自分がどう、フォーカスし続けるのか」を、どうかひとつ、真剣に考えてみてはどうかしら。