作成日: 13/05/15
修正日: 13/05/15
走って
走ったの
G.Wが終わりかけの頃、「なんかこのままじゃ駄目な人!」って自分で激励しはじめて
なんかしなくちゃ、と思ってたら、まず体をしぼるべきだと思考が先走り、しぼるったって・・・と
躊躇する間もなく「じゃあ、走ろう!」と、直感で走ることにしました。
誰彼に見られる覚えのないところに住んでますので、心置きなくはじめられるし、唐突にやめたって
非難もされないでしょうから、まずは自分の「持久力」をみてやろうと、どこか意地悪な心持ちで
自分を痛めつける気持ちもあって、走ってみたんです。
最初、足が上がらない、息が整わない、体の使い方が分からない、と、パニックみたいに
「普段使ってない感情・考え方・体の捌き」が一斉に襲ってきました。「シメタ!」と思いました。
「こんなに自分のことが分かってない部分があったのかっ」ってうれしくなりました。
とかいいつつ、走行中は苦しくて苦しくて、真正面が向けないのです。
足元に集中するか、なにか一点に注視してないと、心が折れそうなのです。
そして「体が重い」と思えば思うほど、それが自分の足腰に負担を与えてくるのでこれまた
「しめた!」と思いました。重いほど、「自分」にペナルティが課されるわけです。走るって言うのは。
重いままでいれば、走り続けるほど、負荷がかかり続けて、精神力も筋肉もスクッ!とついてくる
気がしたのです。そして心の奥底には「いつだって、やめてみせます!」なる、超引け腰な決意が
みなぎっています。
1日目はとにかくへたばりました。
部屋に戻り、シャワーを浴びたら、ふと正気に戻りまして「お、なんか気分がいい」ことに気づきました。
日中の煩わしさや難しさ、困難、憤りが、「すっかり過去」で、「考えてもいられない」のです。
ああ、そうですか。嫌なことやつらいことって言うのは「考え続けてる」から、延々つらくなってるのかと
思ったのです。それを「夕方に走る」にしちゃったら、「そこで断絶!」が起こるのです。
ややこしく考え続けられないほど、走ってることにへこたれるのです。嫌々なのです。大汗かいて、
自分の未熟さと寛容さがないまぜになり、くらんくらんになるほどに「好きで走ってる」ことになります。
「しめた!」って思いました。こんなに簡単に思考を断絶できるんだ、と思いますと、うだうだ考えちゃう
ワタクシ的性格にはジャストミート!隙をみては、人というのは「気にかかってること」に自分の思考を
持っていく導線をつけるじゃないですか。どうしたって好きなことばかり、嫌なことばかりという
「放っておけばそっちにいく」思考に負け越してるのです。これがどうにも気に入ってなかったので
このごろネットラジオやアンビエントミュージックのような、「世間をにぎやかしてるニュース類を
扱ってこないメディア」に向かっていたような気さえ、してきたのです。それが「走る」ということで
すとんと解消される。かなり高い確率で「体感」できる。しかも毎日。
2日、3日と仕事あけに夕刻30分は走るようになってきました。息は案外早く整うようになりました。
最初はふくらはぎ、足首がじんじんうずく疲れを覚えましたが、そんな体の負荷以上に、
「心の方はスッとした」ことで、そこから「もう一回、今日スタート」みたいに夜の時間をすごすように
なったのでした。これは収穫です。ぼんやりして、疲れきって、風呂入ってご飯食べて寝る、なんてのより
断然精神衛生がよいです。
たぶん目に見えてそれが出てきてる気がします。血流がよくなってるせいか、体の不調も感じません。
でもやっぱり「気持ちが前をむいてる」ことが不思議でした。走っただけで?うん、そう。
4日、5日ときて、走ってることが苦痛でなくなってきました。あと、周りの風景が見られるように
なりました。あと、あと、走ってて「つらい」のに、「つらい」に集中せずに、「つらいけど・・あ、焼き肉屋!」
「つらいけど・・・ほう、こんなところに歯医者」などと、つらさ一辺倒だった気持ちが、「つらさ」は減らないけど
「並行してよそ事は考えられる」という、パラレルな感じをつよく抱きました。
ですから「気がまぎれる」てことは、なにがしかのことを続ける上では、スッゲー大事なんじゃないかな、て
思うわけです。
1週間しか走ってませんが、下腹部のあたりは「どうすんのよ!締まるの?締まらないの?どっちよ!」って
迷ってる感の漂う筋肉構造になってきました。でも使ってる部分ってやっぱり結果、出ますね。
走ってどうすんの。
とか思ってたんですよ。実際のところ。
でも理屈じゃない部分で、なんか面白いがあるような気がして、やってみたんです。
いいですね、とっても。
走るのに、理屈は要りませんね。つか
なにがそんなに「理屈に合ってなくちゃいけないの」って、なれていないことの方が気になりました。
なに様よ、理屈様よ、ってね。
「やりてーのでやりました」という、不純というか、不明確というか、無目的というか、天の声で
はじめるものには、なにかかしか見つけるものが増えてきたこのごろです。
こうなってくると「余分なものはどれか」が、スンと決まってきて「排除する」とか「切り離す」とか
意識しないでも、「近寄りもしなくなる」ことが鮮明になってきました。
意思の力でこまごましすぎなんですよ、人って。
あと、自分で思ってる以上に「どーーーーーでもいい」ことに思考を浪費しすぎなんですよ。
鬱々としちゃってるくらいなら、そこいら辺走ってこい、30分ほど。そういいたくなったのでした。
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