作成日: 13/07/09
修正日: 13/07/09
たった一度でも
それは「ずっと」になる
たった1回でも、そこがみたされるところなのだと人は知ってしまうと、いつかはきっと満たされると
信じて疑わない。歌であっても、愛であっても、思考であっても、すがるつもりではないにしても
心の奥底からの「そこへの帰属意識」がぬぐえなくなる。
そういうのは弱さではない。自分がみじめになったり、冴えなくなっている時に、行き続けていく
よりどころになるものを、軽んじた言い方をしてきたり、蔑んだりする人もいるけれど、私はそういう
芯のあるものにとても魅かれるのだ。
今日はitunesで遠藤京子(響子)さんの曲が買えることを知って、「魔法」「オペレッタ」など
数曲購入しました。25歳の時にレコードを火事で全焼させてから、レコードプレーヤーと
LPレコードを買い直してはあったので、京子さんの曲は聴けるようになってはいたのですが、
よもやipodで聞く時代になろうとは。
私が弱ってる時にこの人の曲はすっと入ってきて、すっと居座って、こっちが元気になる時には
いつの間にかいなくなってる。でも、覚えてる。本当に弱くなって、本気ですがりただけの心持ちの
時に、真横にいてくれてるという「美しさ」には、どんな代替もありゃしない。
そしてこの人の曲以外では、こっちの本性にたどり着けなかったり、発見もされない気持ちに
すーっと寄ってきて、ちょこんと当たり前の顔つきで、でも、遠くを見てて、目も合わさずに
そこにいてくれる感覚を得る。
この百人力な、透明な強さってなんなだろう。
でも中学の頃からこの感覚を知っていたことで、何度も何度も私は救われてきた。
いい年のおっさんに自分がなるだなんて思ってなかった時に、慰めなんてものなんか軟弱とか
思ってたときに、すでにこのいいようのないポジションに「どっこいしょ」って座っててくれた
歌手と歌がいてくれたことに、うれしくなる。
冒頭にも書いたけれど、一度でも「それは・いつか・満たされる」という感覚は、たったの一度ででも
満たされたり、あがなわれたことのある人でしかないと分かり合えない。それは傷つくってことが
深いほど強烈な浸透をみせる。
今日はなんだかそういうのをいろいろ思い出した日だった。
今回のipodのプレイリストは半分が中学の頃から聞いてた曲に満たされてる。
彼らの曲は消えなかったし、時代が流れてもこうして聞き続けるメディアとなって存続してくれてる。
なにより、代え難いものになる。すがってしまいそうになるけれど、ううん、本当はもっと
ぶざまな性根の部分なんだけれど、「よりによって、どうしてそこを知ってるの?隠してたのに。
しまってたのに。なかったことにしてたのに!」ってところに
「そうだよね」ってだけを言いにきてくれる。
答えじゃない。
「そうだよね」ってだけ。
でもそれが
どんなにうれしいことか。
そういう強さってものに、私は憧れるのでした。心底。
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