作成日: 14/02/02  
修正日: 14/02/02  

放っておいてあげる力

放ってあげる方こそが力量は上


かまわれたくない時期や人柄というものが人にはあります。普段は人懐っこくても、ナニカあった
ときや、考え事をまとめてるときだったり、大きく切り替えたい時には、なるだけ一人ぼっちで
とっくりと考え方を絞り上げたいのです。

私自身はとてもこの頻度が高く、それを許してくれる人をとても感謝の念で見上げております。
仲間とワーってしていられる人は、それが楽しいのですし、それはそれでいいでしょう。
そういうのと同じくらいの価値観でもって「じっくり練り上げたいのです」という人を
生暖かく「見守ってくれてるだけの人」っていうのも、もっと尊重されていいと思うのです。
もっともっと褒め讃えられていいのではないのかと、小生などは思うのです。

それが上手にできる人が大人なのじゃないのかしら?と都合良く私は思っております。

ほっといてあげる、というのは「まるきし自分自身に興味のないこと」なら、自然とそういう態度に
なりますよね。ここにいう「ほっといてあげる」能力は「放っておけないような相手」なのに、
敢えて「放っておいてあげよう」と意思や思いやりから「意図的」にそうすることを指します。

放っておくのは、放られている人には心地よくても、放ってる方こそがストレスになってる場合が
あることが、あまり顧慮されてる感じがいたしません。だって、本当は「ずっと気にかかってる」
のですから、「放っておいてくれよ!」と放っておかれたい人ほど、独善的に「好き勝手ではじめた」
感情とも少し違う感じがします。

「だって気になるんだもん」という、理屈抜きの感情から始まっているからこそ、「気にしてる」が
消えません。ずーっと、ずーーーーっと、気になるのです。

なおかつ、そこを相手の、強い、要望から「放っておく」を選択しますから、その人にしてみれば
「訳も分からず、気になってるんだもん」という第一の壁に加え、「でも相手は『放っておかれるを
選んでくれ』と言ってきてる。それを飲みましょう」という、自分の気持ちとは別の決断を
自分自身に強いる、という第二の壁を設けております。しかもその期限は「相手がやめるまで」という
恣意的で、任意なものですから、そういう複数層の階層を持った感情を「すぐ終わるかもしれないし、
ずっと死ぬまでそうしなくちゃいけないカモ」と悶々としながら内在し続けさせることになります。

それが故に、わたしは「放っとかれたい人」は、結局のところ「放っておいてくれる人」の手のひらで
動いている人なのだと思うのです。そこに感謝の念を持てない人は、放っておかれたい人でいる
資格がないと思うのです。
その意味において、放っておかれたい、というのは「能力」なのです。「技量」なのです。
ただの「好き放題にしていたい」という類いのものではないのです。

放っておいてもらいたい人は、「放っておいてもらえる」まで、環境を自分の味方に引き込む力が
要ります。その準備も工夫もしつらえもしないでおいて、「放っておいてくれよ!」と
ふるまって、やさぐれて、きつく人に当たる人は、疎まれてあたりまえなんじゃないですか。
挙げ句「どうせ私なんて・・・」だななんて、むしがいいだけです。そこにたどりつくことこそ
当然であって、見通しも甘いのです。

それが故に、人の器の一つに「上手に放っておいてくれる人」に巡り会えると、かなり
大きな資産を手に入れた心持ちがしてきます。お金でこれが確保で来ません。
放っておいてくれる、というのには、「全然気にしてない」とも「知らない」とも違い、
「視線を常に送っている」「気持ちはそこにたたずんでいる」わけで、困ったり弱ったりする
局面では、手出しが入るのです。妙な話、そうなるととたんに「放っておいてくれ」の人の
意思は無視します。黙々と蹂躙します。「お前の言ってるようじゃ、駄目だったじゃん」と。
反面、上手く化けたり、時流に乗れたりすると、人一倍喜んでくれるのです。誰よりも、深く、大きく。
人知れず、豊かに微笑んでくれるのです。「やると思ったよ」って。

一言で言えば、むしのいい話です。滅多にないのです。ひとりよがりな話です。
でもこれを知らない人の生き方は扁平で淡白だと思います。
上手に放ってあげられる一員になりたい者のひとりです。