作成日: 14/11/01  
修正日: 14/11/01  

年配者は人生の先行者

そこにいてくれてよかった


大阪のおじさん、おばさんと話してて、その人一人が生まれ育ったところから、今現在の
生活に至るまでの話を聞いたり、親族の方の苦労談や活躍を聞き、人に歴史ありとうなった週に、
今度は実家の父より、ながや家の親族話をとっくり聞くことができました。

父がとても短期間ながら名古屋に出ていたことがあったり、幼少時の苦労話を聞いたり、
兄弟姉妹の今まではっきり聞いてこれなかった話を聞けて、びっくりしたりしました。
親族のおじさんや、既に亡くなられているお姉さんなど、なんとなく知らなかった話に
急に血や肉、骨がついてきたような感じです。

地域ってものの中で過ごしてきた時に、その裏の話や連綿と続いてきた地方色にあふれた
エピソードを聞くと、なるほど、今の自分ってものは、その地域が培ってきた「そこの空気」が
醸成してくれたものでもあると、なんといいますか、得心がいったのです。

私みたいに、あちこちを転々と移動した生き方をしておりますと、自分ってものがその時その時に
「過ごすことになる地域」に、ヒョイと置かれると、馴染めたり、浮いたりと、さて、なにが
好まれてそこで生きてるんだろうって感じることがままあったのです。

一概に「自分」なんてものはなく、「自分っぽいもの」というのは、生まれて、育ってきたものの
総和のような、ふんわりしたものだと思っているのです。つまり、固く頑丈に確固たる主体ではなく、
家族・親族・仲間が「みなしてくれた」人柄ってもので、その地域に挑んで行く感じ、ってあたりが
言い当ててると思います。

父の幼少の頃の思い、家族みんなが感じてた気持ち、今の今まで「聞かれないできたから」で
話してなかった話とかさ、なんか偶然みたいなタイミングで話を聞けると、すごくなんていうか、
得した気持ちになったのね。豊穣な時間に運良く出会えた感じ。

年齢を重ねるごとに、年配者の話したこと、話さないできたことの「生き方の含蓄」みたいなものが
いよいよ頼もしくなってくるんです。こっちが若くて気づけなかった言葉や本意が、光を放ってくる
感じです。

人生の時間が有限なものであることを、ひたひたと近づいているもので獏としたまま気づき続ける時間が
どんどん増えるんですね。だからこそ、長く生き、過ごしてきた人生の先輩には聞くべき言葉が
たくさん詰まっていらっしゃる。ことさら自分に近しい年配者っていうのは、先に挙げた
「自分という空気」を作ってきてくれた、いわば「彼(彼女)もまた自分という部分」でもあるから
いくつもの応用が利く含蓄があります。

わからないままおびえるのではなく、少なくとも人生の先行者としての助言が仰げる機会を
私たちはもっと頼った方がいいのかも、ってこのごろ本気で思うのでした。