作成日: 14/12/23  
修正日: 14/12/23  

父へのインタビュー

ながや家の系譜


父と温泉行った帰りの車中で、フイにながや家の「系譜」について聞いていたら、知らないことが
幾つも出てきて、これは一度しっかり聞かなくちゃいけない心づもりになりましたので、
先週ビデオカメラ引っさげて、父にインタビューをしてみました。

すると父は2時間は悠々と喋っていただけまして、それも飽きることなく、生き生きと、そして
上手に話すのでびっくりしました。話の中、それまで父は5人兄弟だと思っていたところ、
「生後すぐに亡くなった」という方も含めると、実は7人兄弟だったことをはじめて知ったのです。

私が物心つく前に亡くなられていたおばさんの存在があったことや、親族内での養子の
やりとりなど、「大人になってから」でないと、腑に落ちにくい話を聞けて、今の今まで
普通に接してきていたいとこにも、いろんな想いの中で生きてきてたんだっていう話を
聞き受けたりできました。

それは体の奥の方のナニガシかが、静かに満たされるような感じの体験でした。そしてそれが
記録できたこともよかったなと思うのです。
そうして考えると、人誰もにこうした「その人の目線でだけ蓄えられてきた見え方」の数があることを
いよいよ認識を強くしてきていまして、ああ、そういうのって語ってる本人も生き生きするし、
下手な番組なんかより断然威力があるんですよね。

父の話の場合、長女さんと末弟さんが亡くなられていて、戸籍にすら載っていない子が
いたということ。それを語る時に父が「昔はほーゆーことがあっただよ(三河弁)」と
少し微笑んでるような、寂しがっているような、ないまぜになった顔つきでいたのです。
人ってこういう「一言では言い表せない」表情を作るときがあって、それはとても豊かな
感情だと思ったのです。

私はテレビよりもラジオのドキュメンタリーみたいなものの方が好きな傾向があります。
テレビの「見えすぎる」「聞こえすぎる」情報量は、どこか、なんだか本当すぎて
重いのです。受け取る側に、ほんの少しでもいいのでブカッとした余裕を与えて欲しいのです。
ラジオのドキュメンタリーとかって、情報量はテレビよりも制限されるでしょうけれど、
おかげで「ある程度の軽さ」も確保できています。受け取りやすい量加減なのです。

テレビや映画よりも、ラジオドラマの方が数段長く、こちらの心に食い込んでいるなんて番組も
あるのです。それは番組を受け取る側に「その番組を味わう」という「共犯」のような
同席感があるからじゃないかしら?って思うのです。

足りない分の情報量を、受け手のイマジネーションが「補える」というメディアゆえの
特性が、テレビや映画よりも「参加」を作品世界へと促している。
一緒にそこで、長く過ごしたいって気持ちになれる「余地」のようなものがある豊かさが
結局のところ、人を深く魅きつけるのではないか、って。

父へのインタビューは70年を越える父の見聞きしてきたものを2時間に集約させる
ものであるがゆえに、端折られたり偏ってたりするかもしれないけれど、そのおかげで
こちらのイマジネーションも総動員して伺うことができ、やっぱり心に食い込むんですよね。
ああ、そうだったのか、ああ、ここは黙ってきてたのか、ああ、ここはそう言い回して来てたのか、と
大人の配慮もたっぷり感じたのです。

生きるって言うのは上手に言い表しきれないナニガシかを、層のように重ね合わせた体験の群で
自分の中にプールするものだから、「その人」のナリや性格そのものに、きちんと現れます。
上手にその内面を発露できないがゆえに、その人そのものが「積み上がったもの」ですね。
「なんにもない」も積み上がるし、「色々あった」も積み上がる。

とつとつと、じいちゃんの頃からながや家に起こってきたことを聞き受けると、今のおじさんたち
おばさんたちの「性格」に至った訳も分かってくるし、父がすごしてきた中でも、今その
「最先端」部分に自分が息子として生まれて、兄弟の一員にさせてもらっていて、ご飯を食べたり
お風呂に入ったりしてるのは、けっこうものすごい偶然なんだなって思うのです。
で、ふかーーーーーく、感謝したのでした。で、こういうのって大事にしなくちゃなーって思ったのです。