作成日: 15/03/01
修正日: 15/03/04
文化と文明
司馬先生の本からイントロを掴む
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司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」の「バスクへのつきぬ回想」より引用。
「多数者には文明しかない。少数者には、びっしり文化が詰まっている」
ここで仮りに定義しておこう。文明とは普遍的なもの、たれでも参加ができる交通ルールの
ようなもの、そして文化とは特異なもの、不合理なもの、さらにはそれなしでは人間の心の
安定がえられないもの。
(中略)
少数者に文化が濃厚で、多数者の場合、彼らを支配しているのは、法と簡便な道徳、
そして適当なマナーだけなのである。健康な人(あるいは気楽な人)の精神なら
それでも耐えられる。しかし人間関係に疲れやすいーもしくは人間であることに疲労しがちな
精神にとっては、お稲荷さんにお参りしたり、新興宗教に入ったり、星占いを信じたりする
ことさえ、なぐさめになるのである。
(中略)
少数者がはげしく自己主張し、多数者に背をむけ、少数者が特異性を不必要にまで主張し、
そのことによって多数者に顔色をうかがわせ、ときにバクダンを投げつけて自己の存在を
示そうとする時代がくるにちがいない。しかもそのことが、集団(国またはその類似団体)の
唯一にちかい目的になりそうである。人類は、普遍性にあるいは予見できるような事象では
あるまいか。以下は、私の妄想である。二十一世紀では、普遍的文明は世界をおおうだろうと
いうことだ。むろんこのことは世界国家ができるといったふうの政治的なことではなく、
普遍的慣習の世界化とか、英語などの共通語の普及、またはファッションなど生活のソフト面の
共通化といった文化的要素の共有性が高まるだろうということである。(以下略)
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中東での最近のことや、不穏な国内での事件など、すでに司馬先生に予見されていた気持ちにもなります。
返せば、「今現在がこうなままなら、その延長上に起こることは普通こうなりますよね」という文脈上から、
外れ得なかったことになります。みすみす言ってもらってたことを、生かすに生かせなかったってことの
ようにも感じるのです。
くたびれてきたり、余裕がなくなってくる時に、人はそれまでに「みせてこなかった蓄積」のような
ところから、鋭利なくせに、押しの強い思案をゴリ押そうとしてしまう時があります。
「文明」というなら、漢字圏を成しているかつてからの中国は文明のを成してくれました。
中国人も、日本人も、漢字を使わせてもらえてますものね。そして「文化」としては、中国も
日本もちゃんと別のものとして住み分けられています。そうした居心地の良さへの警告を
上の司馬先生の著書に読み取れるのに、実際の行動はどうしてこう馬鹿なものになってしまうんでしょう。
川崎の中学生刺殺事件にも同じことを感じるのです。
「文明」としての「日常生活」って中に過ごしてる限りは、かろうじてであっても普通であるのに、
その中で「文化」として「不良仲間たち」に位置して、属してた人にとっては、殺人が看過されてしまった。
こじつけのようですが、スケールが違うだけで、同じ風景に見えてくるのです。
「全体」の中にあって、そこそこの「平和そう」というゆるさを甘受しながら、実際は自分が
「属している」という「文化圏」内では熾烈な「存在証明」を強いられる、一種の強迫観念
みたいなものを、言葉にもできないうちに、ずーっと押し付けられる。窮屈さがある。
なにかが起こったあとに「じゃあ誰が悪い」という生け贄さらして、毒抜きみたいなのが
全世界的に横行してるけど、圧倒的に「まず圧をかけた」側に罪はないのか?とは思うのです。
じわじわと真綿で締め付けはじめた連中が、存外のうのうとしております。被害者は
そこに居合わせただけの人であったりもします。事態は「起こる」まで「放置」され続けたのに、
「結果」に居合わせた人たちだけが苦しむ仕組みが、平然とまかり通りすぎています。
一種どこか巧妙で狡猾な「生き方合戦」ごときが、人生で大事よねみたいな空気でいるのには
我慢なりません。ただこんな風にこんな文章打ってても、解決にも至れない。
「文明」という大枠に、自分の生活圏である「文化」をぶつけ、対峙させる方法でしか、
「見せつける方法」がないというのは、ひどく切ないのでした。文殊の知恵がある気がしてならない。
ましてや「そのことによって人が死ぬ」が連発してるのは悲惨に過ぎる。
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