作成日: 16/07/23  
修正日: 16/07/23  

心配について思ってみた

正体がないもんなあ


老後のことを心配している人と話しました。もう定年退職で一度離職されていて、パートタイムで
働いていらっしゃる方なのですが、今は夫婦双方ご健在だけれど、ひとり、いやふたりともぼけて
しまうようなら、もう今の身入りでは、到底施設に入れないわと嘆いておいででした。

そうかぁ。もう余命幾ばくでも、その際まで、「ずーっと心配」しっぱなしで人生がついえるのねと
思う反面、なんだろうね、この「心配」ってやつに、どうしてこう振り回されっぱなしなんだろうかね、と。

してる心配のいくつかは「実際には起こらない」ものも大変に多い。若けりゃ若い心配があり、中年には
中年の心配があり、ご年配にはご年配の心配がありますな。心配に備える、というのは、死ぬまでずっと
心配しっぱなしになるというお話ですな。

いろいろ備えがあれば、「そこは安心」となり、よそごとの「再心配」を開始します。きりがございませんな。
世のマーケット、市場というものはこの「心配」にかこつけて動くものも大変に多い。
窮屈なんですな。正しいんでしょうけど、生きるっていうのは適切さのほうが勝る気がするんですな。
正しいことが、ちゃんとまかり通ればいいんですが、「正しいはず」なんてな外縁までまで含めちまいますと
もうとたんに首がすくんじまいますな。なんにもやる気が起こらなくなります。いけませんいけません。

そうかといって、「心配すんな」というのもまた雑な話でして、してない心配ってのは急に訪れても
きますんで、ひたすらうろたえたり、無駄な失敗を重ねちまったりもします。そこそこ、という
心持ちが一番しゃんとしてるようにも見受けますな。

「獏とした不安」こそが、理由もはっきりしませんから、人が付け入りやすくなる訳です。
獏は獏なもんで、はっきりしちまえばやりようもあるんですが、なんせはっきりしねえもんだから「獏」とか
呼んでる訳です。獏とした不安のまんま、いろいろ手の打ち様のないことに、ふんわり立ち向かうもんで
際限なく浪費しちまったり、依存しちまったりするのですな。こいつもいけませんいけません。

そうですなあ、不安を感じたら「不安だなあ」とまず分かっておいて、「私は今、不安なんだなあ」と
分かっておきさえすれば、それまででいいと思うんです。起こるか起こらないか分からないことであれば
なおさらで、「不安だなあ」と分かっておく、までで、据え置くことです。手だては自分のそン時の
「ひらめき」だとか「周りからの助け」に依ればいいと思うんです。

余剰な心配対策がゆえに、起こること以上に国民総一億の「心配準備」で、経済が発生してるんでしょうが、
そんなことじゃあ人の心持ちが貧相になりますし、つまるところ心配のしっぱなしで人生がおじゃんです。
起こることは請け負いましょうかね。あきらめもつけましょうかね。

覚悟なんてしたかないですけど、覚悟してないとね、余分な心配にやられちまいますなあ。
そうでないと、生きてるってのが、つまんなくなりますものなあ。ええ、ええ。