作成日: 17/07/22
修正日: 17/07/22
ぐだぐだ書いてみた
ウヤムヤしてるもの、そのものにも「それなりさ」があると思う
もうすぐ半世紀生きちゃう大学の同級生が今年も遊びに来てくれました。
いつの間にか毎年遊びに来てくれる仲間2名共々、同じ年齢を重ねるわけですよ。
で、アイも変わらず似たよーなこと話して、似たよーな生き様のママで、食べてー
飲んでー、風呂はいってーで、また来年となる。
SNSなんてのが発達してきてるから、そのテの情報は、その日のうちに写真がアップ
されて、遠くお互いに地方に住みあってる旧来の仲間にも共有されて「変わんないねー」
とかコメント頂戴いただくわけで、その仲間ってのも、全国の端々で、一斉に1歳年齢を
重ねるわけです。
かわんないねーってこともなく、徐々にお互い変わってきているので、そーそー的を射た
コメントでもないわけですが、出会ったのが高校出たての頃出会ったことを思うと、まさか
アラフィフ寸前までずーっと友達ってだけで、行き来したり、お互いの家族の素性や生き様を
見やることになってるだなんて、昔の私たちは予定も心づもりもなかっただけに、年配者なりに
新鮮なわけです。
そもそも、その仲間2名も懇意にしていた仲間というよりも、同じ映像学科内でもコースを
異にしていたり、常に一緒だったわけでもなく、ほどよく距離もあるがゆえの、長続きって
表現が当たっている仲間です。
今年は私の父が亡くなってるから、二人はお参りもしてくれました。お互い、家庭の事情も
知ったり知らなかったりも、どこかないまぜでに、なし崩し的に予感してるから、余計な
気遣いもしなければ、詮索、憶測も省かれてて、友人としては大変居心地がいいのでした。
と、いいますか、これくらいのスタンスでないと、長続きしないのもまた友達ってモンなのかも
しれませんね。と、いいますか、そのスタンスで居てくれてる人だけが、かろうじて私が
つながってる人脈なんでしょうね。感謝します。ありがとう。
さて、さすがにこの年になって来ると、いろいろ若い頃にはしなかった考え事の類いが
でてくるんだよね。自分一人の話じゃなく、周りも含めた上での身の処し方ナンテーものも
それっぽくいろいろ気にするようになります。
実際かまってくれたり、助けてくれてた大人たち、って側に自分がいることになってきてるし、
亡くなる方達のしてきてくれたことを、亡くなられてからハッとするってことの回数が増えます。
んで、「自分のやってきたこと」と「やってこなかったこと」なんてのも、チョイと振り返って
みたりするお年頃でもあるわけです。20代、30代がその代替わりの年ごとに急に発奮
しちゃうように、「このまま終わるってわけにはいかんな」とか思おうもんなら、また乱暴な
決断と実行をしちゃうお年頃な訳ですよ。
事実、ワタクシ自身も40代を随分おとなしく過ごしましたので、少々焦れております。
「でっかいことがしてぇ」的なことではなく、いろいろたくさんたくさん遠慮して、我慢して
言葉を飲んでいたことを、少しづつ解除してきてる気配が自分に感じるのです。
で、いったんそれをしちゃうと、歯止めが利かないんだよね。この年になって来ると
「自分がやっちゃう」だけでは済まないことが分かって来るし、自分がなにかをしたことで、
周りもまた決断や実行をするってことの余波も予感できるので、「ごっそり」色々動くことも
覚悟して、言ったり、やっちまったりすることになります。一言で言えば「迷惑をかける」ってやつ。
人ってさ、ワガママに見えそうな人ですらも、実際はワガママな人なりに「我慢」して、ようやく
今の線で済ましてきてるモンでさ、ホントはもっとやっちまうンデスヨってとこまで
さらけ出せてないんだよね。だからいったん「我慢」の弁が抜けたときには、とりとめのない
ことに事態が進むもの。
「人生は一度きりだから」とかいう理由を昔の人はもっと連呼してたと思います。
人生が一度きりだから、何したってカマワネーってもんじゃないもんね。人の中で過ごしてるんだから。
でさ、「当然そうなるわな」って終わり方するじゃん、どんなことも。でも終わってみないと
「そうなるわな」のおさまり方って、誰も想像できないんだよね。終わったときに、さも当然そうな
顔でさ、「そりゃそうなるわな」って言うだけ。で、たしかにそう終わるしかない終わり方を
してくれてる。その他は、ない。
据わりのいいおさまり方を、「なるようにしかならない終わり方」で、人生の方がしつらえて
くれるんだから、生きてる本人たちは「我慢できるトコまで」我慢をしたらさ、もういいと
思うんだよね。我慢しっぱなしも人生だし、我慢放棄もまた人生だし。で、自分がやっちまった
こと相応の報いがちゃんとあったり、なかったり。結局「思った通り」だなんてことはなく、
イレギュラーなものが積み重なる、どったんばったんの堆積物が「こうでした」って示される。
友人、というのは、その積み重なわせているものを、ずーっとお互いに見て過ごしてきた
連中ってことでしょ。それって、すごいよね。当人が望んでも、望んでいなくても受け取ることに
なってきたことの結果を都度都度で知ることになる。いいとかわるいなじゃく、「そうだったね」って
ことばっかりを、アイツはそうだったよなあ、って思い出しながら、怒ったり、笑ったり、
泣いたりするの。家族ってものとは、またちょっと違う面白さが、友人ってものにはあります。
ふわふわした輪郭全部ひっくるめて「そーだよね」ってものにまみれて生きるのが人生。
運も不運もコミコミで。
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