作成日: 17/10/29  
修正日: 17/10/29  

世界は真空状態を嫌う

空にしたところに埋めるように流れ込んで来る





普通に生きていますと、色々くみ上がっていくものがあって、それがいつのまにか
自分を構成するほとんどになってたりします。最初はご両親や周りの連中の
中で否応なしなものだったものが、自分のものになってたりします。

自分でよしなに思っていたものが、自分をさいなんだり、傷つけたりするもので
あったときには、そいつをナントカしなくちゃならないんです。

今まさに私はその境線に立っておりまして、自分では普通にしてたつもりのことで
すっかり調子がくるってしまっていたのです。周りの人にはそれが分かってたみたいで
急にアドバイスをくれたり、ねぎらってくれそうになるので、急のつもりだったけど、
ハタの人には見えてたんだなあ、とか思ったりするわけです。

調子が悪いときは、基本的には何にもしません。
弱ってるときは、弱ってるままがよろしく候。なにやっても変な方に向かったりも
するんですよね。おっつけ、自分が「空っぽ」になって行きもしますが。それはそのままで
よろしいのです。

空っぽになるのはこわかったり、嫌だったりする心持ちですけど、そこはそれを
空にしておく、という能動の姿勢に終始します。空であること、不調であること、は
自分だけのことではなく、自分以外の人もそれを察し、それを見て、他人なりに埋めてきて
くれます。そのときにそぐうものを、です。みつくろうのは他人様ですから、当然
自分の要望とは違うものが放り込まれますが、そこはそれ、それを楽しみ、味わえると
いいですね。

金曜日に編集の仕事やってる子と飲みの席で話したのが、「思った通りじゃないってのは
そんなに嫌なもんじゃない」ってことだった。やっぱり今の自分にそぐうものが、世の中から
ギフトされてくると思うんだ。

空のママがよさそうだ、と、他人に見繕ってもらえれば、その人は「空」の状態を維持できるし、
しゃにむに埋めるように「空」へ詰め込んだところで、不自然で、力づくなものは、そこに
気持よく留まれないわけで、おっつけ駄目になってゆく。

そもそも「空っぽ」であることは、わるいことでもなんでもない。ただの「状態」。
私は空の状態を「待てる」ようになった。自分で仕込んでこなかったものを、受け入れることは
昔ほどいとわなくなった。わけがあるのだ。いや、わけなんかなくても「空である」という
インターバルを横目にみやるくらいには、生きて過ごすって言うのはガバガバしていていいのである。