作成日: 18/05/25
修正日: 18/05/25
人が人を覚えているということ
それだけのこと、されどそれだけのことこそ
最近二つのことがありました。
ひとつめは、友人が夜中に電話してきまして「ながや、すごいことが
起こったで」というので、聞いてみますと、今大阪の店で飲んでる
ところなんやけど、そこで店に居合わせた人と話してたら、同じ
大学って言うのが分かってな、と話が進みました。
そしたらな、同じ学年って言うのが分かって、知ってる人の名に
お前の名前があったというのでした。
「え?誰?それ」ってきくも、友人は「”キャプテン”って店で呼ばれとる」
と言います。キャプテン?キャプテン??そんな名の友人は知りません。
「ほな、変わるわ」と言って、電話口に出たのは、大阪在住の友人
でした。私とは21歳で知り合い、一緒に映画撮ったり、彼の落語
見に行ったりした仲で、今年も1月に遊びに来てくれてました。
電話して来てくれた友人というのは、この”パリとも”の共同設立者
なのですが、各々別々に同じ学校で過ごしたものの、全くつながって
来なかった友人たちでした。それが飲み屋さんで、私ともう一人の名で
お互いがピンときて、映画談義に花が咲いたということでした。
そしてふたつめ。
日々私が通っとります某窓口で、通い過ぎてて遂に私の名前を
覚えてくれる人がおりました。
地域地域で私の生きてるコミュニティは小さく、できればあんまり
顔を知られたくない方なので、細々と過ごすわけです。
一過性の生き方ができるのもまた大きな街のいいところです。
ところが遂にこの街でも、私の名前を覚え、私の趣向にあったものを
薦めてくれる準備までしてくれていました。
「ここまでしてくれるんですねー」と謝意を伝えると
「どーかなァー」と、ちょっとはぐらかされるように返事してました。
私は自分の「やり方」をあんまり変えません。多少の不自由や被害を
被っても頑なところがあります。意地っ張りです。ですが見込んでくれて
何か提言されると、ほろほろとそれに決めてしまうことがあります。
それは私自身が見失ってるところを補填してくれる善意を相手から
感じたときに、結構な頻度で乗っかります。
さて、上の二つのことから思いますに。
ひとつめの同級生たちは、お互いに面識がありませんでしたが、
私と、もう一人の子の名を、そのふたりの同級生たちが「覚えてた」
だけのことで、30年目にして「知り合いになる」ことになりました。
ふたつめは、私が全く意図しないところからでも、私を見て覚えて
くれる人がいて、要りそうなものをチョイスしてくれる視線というのは
やっぱり世の中にあるんだって、思えたんです。
両件とも「人を覚えてる」ことがあって、新しい「次の過ごし方」に
変遷できました。薄ぼんやり覚えてただけのことが、巡り巡って
場所とか時間を経由して、意図せず、気持ちにギフトしてきます。
そうなのよ
こういうのがあるから、地味で下手な時にも、自分を裏切らないで
ちゃんと過ごそうって思えるのね。どこでなにが巡ってくるか
分かりゃしないってことでしょ?
因果関係も必然も偶然もなんもかんも、「ばったり、そこで」って
いうのが日々起こってるんだよ。その面白さって、すごくいいのな。
大阪で起こったことも、身近で起こった思いやりも、「人がただ
人を覚えてる」ことにはじまってる。こういう豊穣さは計画不可能で
一番うれしく楽しくなる。
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