作成日: 18/09/06  
修正日: 18/09/06  

「わたしを離さないで」

"Never Let Me Go"


カズオ・イシグロ先生の本を図書館に予約していたことをすっかり
忘れていて、窓口で受け取るまで何の本だっけ?という有様だった
けれど、1日で読み終えるほど素敵な本でした。

とにかく文体が優しい。タームが一切ない。登場人物もあんだけ
いるのに、地名も人名も慌てないで覚えられる。読みながらも
ずっと、すごくこれが不思議だった。頭にきちんとエピソードも
場所も風景も「残る」のです。扱おうとするモチーフに対して、
あくまで「普通の人たち」の物語を語る口調から逸脱しない。
とても抑制の利いた体質のようなものが、作品に通底している。

物語を読んでるだけでは、軽いおとぎ話のように、主人公の交友が
描かれているんだけれど、時々思い出したように「シリアスな未来」に
つながる登場人物たちの「逃れられない」現実があって、その「死」に
すら「使命を終える」という淡白にも受け取られかねない表現が
あてがわれている。

ひとつひとつのエピソードはたあいのないものなのに、そうしたことの
連続のうちに、人の人生が成り立っている。そしてそれが愛おしいもので
あるとの立ち位置に、カズオ・イシグロ先生が立ってくれていることを
読者は喜べる。

起こっていることは異常であっても、それは俯瞰してみることのできる
人からの解釈・視野であって、実際そこに息をして生きている人たちには
避けようのない「日々の現実」なだけ。キャスもルースもトミーも
各々の道順に歩いているだけであって、抵抗したり戦ったり、抗ったり
しているんじゃない。目の前に小さく表れる、小さな光に、ちょっとだけ
向きを変えられる分だけ、動かしている。これは人生において大きな
冒険などほとんど行わない私たち自身は、ほぼ同感できる。

では登場人物たちが報われないか、というとそうではないだろう。
その都度都度の中で、最善を選択し、各々が各々の立場で違う
ベクトルをきちんと選べた先の生き方に、ちゃんとなっている。

「介護人」には「志願」をし、「提供者」を複数回にわたって体験する。
その不条理そうにみえる「現実」ですら、その外側に大枠のエミリ先生や
マリ・クロードさんの言外な努力や工夫があった。静かな善意があった。
各々のベストが連なって、からみあっての帰結。ここに不平や不満を
言う人がいるだろうか。私たちはまさに登場人物の心象の延長線上に
住まい、息づき、きっと同じこうどうをとるしかない側に立っている。
そういう気にさせるものがこの作品にはある。

事実、読了して1日。まだ心にこの作品の空気や香りが鼻の奥に
感じるのでした。超傑作な映画を見た後のような読了感。たっぷりと
した幸福感がある。表題になった場面の見事さは、この作品を
送り出してくれたカズオ・イシグロ先生のセンスの良さなのでした。