作成日: 19/01/01  
修正日: 19/01/01  

種まきの時

与えて与えて与えて


新しいことをはじめるときというのは、「そこより以前」があるもので、
それが「片付けられて」いないと、なかなか踏み出しが悪くなるものです。
新しいことがしたい、と言うは易いのですが、実際のところ、それそこまでに
「培ってきたもの」の縁故もあって、放り出せるか、片付けきるまでつきあうか、
無視して我が道に専心して恨みを買うかなどの、ぐるぐるしたものに
ついつい取り込まれがちになります。おっつけ億劫になってきちゃう怖さから
多くの人は「新しいこと」なんてものに、さほどの期待そのものを抱かぬように
自分を持ち込む傾向があります。

ただ、仮にそうした周辺の「片付け」上手の器量よしさんがいたとして、
新しいことに挑みはじめますと、まず飛び込んだ先の「分かってないこと」に
ただただ翻弄される時間がやってきます。失敗しても「なにが失敗だったのか」
すらも気づかぬ期間が続きます。

自分の時間も資力も「ただただ投じる」期間が続きます。これが侮れません。
本当に「生活できない」とか「信用をごっそり失う」期間でもあります。
家族があれば崩壊にいたるのもこの期間の副産物でしょう。そりゃあそうです。
生きていくために、他者に提供しなくちゃならないものを、示せないふがいなさを
目の当たりに日々する期間なのです。

そういうのを自分で見知った時に「それでどうする?」って投げかける自分への
返事もけっこう大事です。「これじゃあいけない」などと思えば、とたんに
「新しいこと」なんてのは「手出ししてはいけないこと」に移行して、スイと
横に追いやりやすくなります。なぁに簡単です、自分一人がそう思っちゃえば、
もう誰もとがめてきたりはしないような事柄ですから、「あきらめる」というのは
ひとつの魅力の一種です。

つまり真面目じゃいかんのです。なりたたんのです。自分に甘く許す図太さも
求められます。世に言う「胆力」です。不合理で不条理で理不尽のさなかを
延々歩くだけの「馬鹿さ」は必須なのです。返せば「正しいか正しくないか」
というところに軸足があると、そこが大事すぎると、できないことは俄然
増えるのです。たちが悪いのは、自分でそれを整え直す視野は、そういう傾向に
ある人には育ちにくいってことです。

おっといけない。話を主流に戻しますね。
新しいことをはじめる時の孤独さは本物です。自分一人の所以ではじまった
事柄ですから、誰のせいにもできません。自分一人があきらめれば、霧散できる
ストレスを、自分で抱え込み「続ける」と決めていられるのは、自分の維持だけ
なのですから、他者からの同情の余地もあんまりありません。そもそも支持なんて
ものも期待できないことに挑むからこその「新しいこと」ですものね。
「やめれば?」とお声がけいただけて「しめた」って思う程度のことなら
早々に退散すればいいのですし。

カーネギーの本での「希求のたとえ」でいうのなら、海にずぶすぶ入って
行きながら、どんどん水に囲まれて、息ができなくて、ああ死んじゃう、
苦しい!空気を!空気を!って求めるほどに求めることができるか、って
いうのもありますけど、なんかこういう「自分が思い込む力」に依存するのも
年々嫌になってくるものです。そもそも、そんな自分本位なフィクションに
自分自身をだまし続けられるスタミナは、他に渡した方がよろしい。

「生きて過ごしてるだけ」に維持費がかかり、公の機関は公共サービスに
かかる資本を借金してでも払い倒せと無言に威圧してきますからね。
フツーに働けてる人には無縁な心労を囲うわけです。
でもそれに値するものを知ってる人は、それができるんだよ。
それを知らない人も、それはそれで済むんだよ。どーでもいい、って。

新しくはじめるってときは、延々「与える」ばかりの期間です。
時間も気力も南無南無の境地ですよ。「自分が好きなことをしてる時間」
なんてもんじゃないです。帰依の心境です。無私の時間。

それそこまでに蓄積していたはずのものは「役に立たず」、
自分が自分の「らしさ」を大事にしてたつもりが、そこがネックとなって
思い切れなくなる壁に何度もぶつかり、くだけ、心折れる期間。
不思議と、自分がノーガードになって、そこをすーっと通り抜けられます。
それが結構難しい。こだわるほどに、自分大好きなほどに、障害は高く、
複雑化し、乗り越えるなんてもう無理!って叫びだしたくなる不安で
パンパンになります。

自分がしっかりしてなくちゃ!って思うほどにそびえあがる壁。
一言で言えばマッチポンプなんですけどね。自作自演なんですけどね。
でもそういう恥ずかしいような無様さを、日々対峙できない過ごし方も
貧相じゃないかなって。

与えてばかり、って自分で思い込んだらさあ大変。
すぐにすっからかんになります。「決意」なんかしてられないほどの
すっからかんぶりになります。周りの人にも隠せないほどのすっからかんです。

こういうときですよ。
すっからかんでも、やるか、なんですよ。
正しくもないし、輝いてもいないし、味方なんてほとんどいないんだけどって
さなかで、「それでも」って人だけが見える景色もあるんじゃないかと。

新しいことなんでしょ?そういうのもなしに、たどり着きようもないじゃない。
だから当たり前なんだよそんなの。決意とか決心とか、夢とか、そんなんじゃ
ないんだよ。すっからかんでも、「そうしてる」っていう自分だけが
周りの人に厄介がられても「そうしかないもので」って、すましてるしか
ないもの。

つらいとか苦しいとか、そういうのももういいの。当たり前じゃんそんなの。
なにもしてあげられないとか、どうにもならないとか、やりきれないとか、
そんなの当たり前なの。だから巻き込むの。決していい人なんかじゃないの。

植物が育つのに脳はいらないでしょう?生きるっていうのは考えて生きてるんじゃ
ないのよ。まず先に「生きてる」の。「育ってる」の。んで次にやっとこと
「考える」こともできるっていう順なんじゃないのかな。
心底の「喜び」がある人には、そういう気配を私は強く感じます。

だから種を蒔くの。芽吹くように。新しいことっていうのは、種を蒔かないと
芽吹かないから。種が先なの。そんだけのことなの。

子育てだってそうでしょ?コスパとか言ってられる人のモノサシは
そもそもあてがうスケールに違和感があります。生き物が育つの。そっちが
話の腰に来るもの。

なにが育つかは種次第。種次第だけど、土壌や環境で優良だろうが根絶えるものは
あるんだし、粗悪なものでも縁あれば栄え広まる。でもまず種蒔きなの。
まず種を蒔けるところまでふんばらねば。ふんばっても報われないかもしれないけど、
それを承知でやるの。それが生きるってことなの。過ごすってことなの。

んでね、そういう理屈以外のところの生きてき方をしてる人はね、
そういう一見無駄で馬鹿みたいなところを観てて、見つけてくれるよ。
通ってきた道だもの。もう「見え方」ができてる人が、見てる。そこは細くて
人通りの薄い道だから、目立つしね。そういうこと。