作成日: 19/07/25  
修正日: 19/07/25  

新しく生き直す

いつでもどこからでも出発


鬱を患ってみて良かったと思えたのは、自分は
体や精神を病んで、壊しても、気づかずに突き進む
タイプであり、壊れ切ってもなお、「そんなはずはない」
と思い込むたちであり、結果的に周囲にストップを
かけてもらわなくてはならない程度には、自制の効かない、
「日本人としてごくごく一般的な普通の人」であったと
気づけたことでした。

前々から社会人の中にあって、永らく、これからもずっと
そうなんだろうけれど、多いなあと思っていたのは
「精神を患ってる人」でした。

身内でも患ってる人がいるし、ニートだろうが優秀企業に
いようが、業界の質に関係なく「満遍なく」鬱に患う
人がいます。通院しながら過ごしてる人もいるし、
そういう人はおおむね「こんなんで休んでたら仕事に
なるもんか」と体と心がとっくに犠牲になってる。
長生きできそうな兆候が伺えない、一種の「自殺」
なんだけれど、他者のため、つまり家族のためとか
自分以外の人のために、頑張っています。

寿命を縮めてまで「立派」でいなくちゃいけないのが
日本の企業戦士の「異常さ」であります。おかげで世界に
類を見ない「時間の正確さ」と「実現力」を有し、
日本クオリティは抜群の信頼を得ています。

でも、それを実現するに至った各人の「自己犠牲」は
とっくに「維持できない」時代に突入しています。
若い人は「従来のやり口」を「死ぬまで求められる」のを
忌避して、早々に立ち去る賢明さをすでに発揮しています。
飲み会とか残業とか、「それをするに値する価値」は
見抜かれている通り、甲斐ないものです。

「これまで通りにはできない」気風に至っているのに、
惰性で「これまで通り」を主張して「人が集まらない」
とか「給与をあげてるのに」とか、ピントがずれています。

辛うじて「今」がまかり通れているのは、とっくに
ぎりぎりの線上に接してることがわかっていません。
認識の持てない企業は、そもそも「まだ押せる」と思ってる
ようです。各企業の中庸から末端部分の「冴えてない」方の
人たちが、自分たち以下の下請けに「実力以上の偉ぶり」を
自覚ないまま無理強いしてるのは、働いてる多くの人が
知ってることですもんね。資金の回るうちはそうした
三文芝居の滑稽劇に下請け企業もつきあうでしょうけれど、
上述してきましたように「メンタルギリギリ」もしくは
「とっくに故障してる」とこまで絞られて働いてる
多くの人は、余力を使い切っています。おしまいです。

若い方々が大変だなあと思うのは、理不尽でも不器量でも
「できないことでもやらされる」にある程度付き合わなくては
「生きて過ごすための要領」が入手されないことです。
ただ、人生の半分以上を過ごして来れると、「そろそろ
我慢すんのは嫌」になりますので、「人に渡さなくちゃ
ならない額面」の確保が出来次第、人は我慢から離反します。

儲けたいにしても、天井のないことに汲々として
過ごすほど、後がないわけです。もう後の時間が見えてきてる
頃なんです。

5080問題などという、「働かそうにもあんまり魅力のない世代」
への放り出し方を見せておいて、若者が黙って年配者の言う
ことを聞くとするならば、その若者はかなりの愚かさです。
社会インフラがどんどん許容値を狭めていく中を、これから
生きて行かなくちゃならない若者の悲惨なこと!
いいよ!若者!早くこれまでの年配世代を放り出せ!
こんな世の中しか用意しないできた世代たちに責任を
突き返してしまえ!

時間の正確さやクオリティの維持のために、職人がひとりふたり
頑張ってるだけってんなら、私も文句はない。
でも企業ぐるみの醸す「正確さ」や「品質」は暴力的に
抑圧・恫喝したものの上に立っている。吉本とか放送業界の
「コンプライアンス」とかいうものも、特殊なナニガシ
ではなく、私たちはむしろ裏側の方が馴染みがあるじゃないか。
忌避するものというよりも、むしろ日々その茶番で病んでるのに。

人によって鬱の症状は違うだろうから、一概なことは
言えないけれど、私の場合はとにかく「底が抜けた」
状態でした。入り口部分、つまり日常生活に抵触してる
面では、「普通」に承れるような態度に見えます。

まず病気に罹患してることはわかりません。分かりませんし、
私もそれを言いません。ですが、こころよく私が承った
ようなものは、「受けた時点で」私はできない、しないと
決めてました。怠けたいんじゃありません。全く起動しないのが
自分でわかってるからです。言いましたよね?「底が抜けて
いる」んです。生返事してるんです。いや、厳密には
聞いてる最中には「なんとかしたい!!!」って猛烈な
渇望と希望を自分に課してるんです。「できない」と解ってて!

わかります?
自分の中で「正常でいたい部分」はたしかに動いてて、言われて
「ハイ!」って答えて、ハイ!って言ってるそばから、背中側で
捨ててるんです。すてたいんじゃなくて、持ってると病んで
自分を腐らせるので、なんの感情も起こさずに捨てるんです。

だから人は励ましてきます。大丈夫そうじゃん、俺も苦しい
ことはあるけど、がんばろうや、って。そういうのを乗り越えて
みんな生きてるんだって。それくらいの(症状の)人は
いるし、それに比べたら君の症状はまだ動けるじゃん、って。
寝込んでる人もいるんだよって。それに比べたら、って。

全然こっちの中で起こっていることは、「話したくないほど」
悪化していますから、解ってくれとも思いもしませんし、
ただ、「あーー・・・なんか・・・・なんか言ってる」って
遠くを見てる感じになります。こうでしか、自衛できないくらい
弱ってるのに、「励ます」形でまだ押すの?まだやってくるの?
「正しいこと」言ってるのは分かるよ。でも今「正しいこと」を
言うってどうなるか全然解ってないんですね。

「正しいこと」のヤイバは切れ味抜群ですから、かすっただけでも
皮膚から血が出ます。何度も何度も正しいので、こっちは
とっくに血だらけです。見えないでしょうけれど、失血過多で
立ってるのもやっとなのに、見えないんでしょうね。
分かんないんでしょうね。残念です。やり続けてください。
止めるガッツも湧きません。血だらけで立ってます。
正しいです。的確です。100人中99人くらいはみんな
正しいって言ってくれるでしょうね。でも僕は血だらけです。
正しくなくてもいいから、怪我したくないだけなのに。
痛いのが嫌なだけなのに。そこも放っておいてくれませんか?
くれないんですか?

そうなっちゃうと、「世の中をブッ壊しにかかるか」
「死んでなくなっちゃう」しか、やりよう、ないじゃん。
追い詰めておきながら、励ましておきながら、あなたは
事後に思うでしょう「なんでこんなことに」って。

正しくなくても、生きていたいし、クオリティ低くても
過ごしていたいだけの人には、日本って国の求めてくる
凶暴な「正しさ」は、強大で絶望的な暴力。
だから多くの人がすでに病んでるし、引きこもる。
あたりまえじゃんって思う。そしてもう一つ思うのは
あー、助けてもらえないんだー、という感覚。

この異常な海の中を泳いでるすさまじさを呪うよ俺は。
自分のことに絡めて鬱と社会不安を語るのは少々
大人気ないようでしょうけど、ずいぶん長く胃の底の方で
とぐろを巻いて憤ってたものは吐き出せたんで、よしとします。

正しいものに加担して生きるのは、それができるうちは
いいけれど、弱ってきたときに目の当たりにする
「正しいんだろうけどさ」って切れ味の鈍い刃物みたいな
ものでぶん殴られるように当てられる側は、痛えのなんのって
ことよ。

で、今日も世界は回っています。いやぁね。ほんと。
働くことは大事で尊いです。身体や心、壊すほど偉くもないし、価値もないよ。
ないない。ほんとよ。