作成日: 19/07/27
修正日: 19/07/27
それはもうたっぷりの余白
無駄という名の大いなる必要
転んだりつまずいたりしくじったり・・なんていうのは、一生懸命にやってみようと
いう想いが強いほど、強く「駄目だったー」って気持ちも大きくなるのが厄介です。
いっそ、はなから期待しないで生きていれば、さほどのショックもダメージもなしで
済んだはずなのに、なんて着想するときは、おおむねくたびれているときだけ。
つまり元気なときは、そういう弱音に注目しないで生きてられるのが人なのね。
老子の「タオ」に関する著作がひどく心に刺さってる昨今です。
以下にことさら気にかかってるフレーズ部分を抜粋転載します。
「器は中が詰まっていたら何の役にも立ちゃしない。
同じように家は部屋といううつろな空間があって
それが家の有用性なのだ」(「エッセンシャル・タオ」加藤祥三:著)
「私たちの常識は、常に『取り込むこと』『詰め込むこと』に向かいますが
内側に空間意識を持つと『吐き出して空にする』ことが先だと分かる。
古いものが詰まっていたら、新しいものは入り込めない」
「『荘子』にはこんな話があります。
君は使わないものを不要だと思っているようだけれど、使わないものや
役に立たぬものが大切なのだよ。
例えば君は歩いてゆく時、自分の踏む地面だけが必要であとは要らないと
思うだろう。しかしね、もし君が踏む地面だけを残して、後を全部削り
落としたとしたら、君は怖くって、必要な地面にも足を下ろせないだろう。
君が気楽に歩けるのは、君の両足の使わない地面のあるせいなんだよ。
君の踏まない地面こそ大切なんだ。」
この話が私は特に刺さってて、常々これを思うことが増えました。
忙しいさなかや、急な生き方の中で求められるのは「身のある部分」だけで
「有用」じゃないところについてうんちくしようもんなら、相手にされません。
そうですよね、忙しいんですから。
有用じゃないところでもたもたしてると、熾烈な弾劾を受けかねません。
なにしてんの?今忙しいのが分かんないの?廻り見てごらん。そんなこと
してる人がいるか?って。
上の引用話にある「自分の踏む地面だけが必要であとは要らない」が露骨に
強調、必要とされ、「安心」するための土壌は、即席に結果を求められる
世界にいる限りは、養えないのです。結果、狂いますね、
なんとなく、自分が感じてた詩的な渇望が、引用の文章にはあったと思います。
と、いいますか、昔からその傾向が私にはありました。
無駄とか、はねのけられたものの中に、「なんかある」という、勘めいたものです。
小学生の頃からありました。それを友人はあまのじゃくな何かと忌み嫌いました。
子供ですから、やむをえないのかもしれません。でも「余って、捨てられて
顧(かえり)みられないもの」の中には、「普通」って呼ばれてる塊の中に
ないものがありました。そこしかないものが、鈍くても光りました。
有用なもの、と言うのが、うさんくさくてかなわないのです。
「その時に有用」なものは、「その時」にだけ有用であって、後に有用扱い
されなくなるときには、無惨で冷徹に捨てられます。ピークの時間が限定的で
どうにも魅力的に感じないのです。そういった有用なんかにすがって上り上がれば
それが理由で蔑まれるようにもなります。「ひとつの穴しか持たないモグラは
すぐにつかまる」ってやつです。なにかひとつことを「よすが」にしてしまうと
一見上手くいってるように見えるものでも、実は人間的には「弱っていく」方に
向かっているのです。モノカルチャーな絶え方をします。だから「バズる」とかいう
言葉もきらい。
この土台で生きてきましたので、「いい学校に行っとかなくちゃ」とか
「いい企業に入ってないと後々・・」が私には「短いスパンの有用性」にしか
思えないできました。言い方悪いですけど、生きて目指すには、安普請すぎませんかと。
そういう人の意見は尊重しますが、どーしても根っこの部分で話が合わないわけです。
近くにいたくありません。相手の否定もしたくないし、こっちの説明も面倒ですし、
ましてや論戦はって、やれ論破だの言い負かしただのといった次元の話でもないのです。
無駄なように見えるもの、もしくは、日常生活にあっては「あってもなくても
気にもしていないもの」があってくれることで、感じられてる「安心感」という
漠然としたものに、橋頭堡を与えてくれた「タオ」。足がかりができたので
この観念を人と話せないか、幾度か試しているんですけど、私の言葉足らずなのか
うまくこれについて盛り上がれないのでした。
全然いないわけじゃありません。こうした観念めいたものを、理屈抜きに話が
スムーズにできる人が世の中にはちゃんといてくれて、そうしたときに私は
息が深くなります。ほッとしてる、ともいえます。
「うつろである」ことは奨励されていないと思います。引用元にもあるように
「なにか詰め込んでおかなくちゃ」の思想では「有用」っぽいもの、という
もので取り囲んだ安普請な武装までしかできません。ITの世界で成り上がった
社長さんたちが、ことごとくうさんくさくみえるのは、無駄な土壌を感じさせない
喋り方をされるからでしょうか。ユーチューバーもコスプレも、ピンポイントで
輝く方法が、どうも私には馴染まないようです。ごめんなさい。でも楽しそうなのは
いいので頑張って。
無駄なもの、があってくれることの安心感ってなんなんだろう?
面白そうなものっていうのも、おおむねこうした「王道から外れた」ところからしか
生まれてこないじゃん?親子関係もそう。「利害」とか「コスパ」とかいう次元で
過ごしてたら、子供っておおらかに育ってないもんね。大雑把で放っておいて
もらえてた子のほうが伸びやかに成長するでしょう?
たっぷりと無駄がないと、焦ったりもするんだよね。逃げ場っていうのかな、
そもそも人生はそんなにきっちり過ごすところじゃないって思ってるのかも。
隙間だらけの人には、他人がコネクトしやすいでしょう?結婚とかでもそうそう
慎重にしてる人は、まずできない。
ノートとかでも、余白がたくさんあるとほっとします。
真っ白のままでもいいし、なにかメモしてもいい。ぎっちり書き込んでもいいし、
文字じゃなくてもイラストでもいい。真っ黒にしてもいい。
余白、って「使える」んだよね。余白のないところって、「有用」なもので
満ちてるけど、おかげでメモも取れないし、注釈もイラストも添えられない。
有用ものでたっぷりなままでは、とりつくしまがないのだ。
ファインマン博士が「積極的無責任」って言葉使ってたと思うんだけど、積極的に
無責任でいる、という、なんだかアンビバレンツな言葉遊びはある意味的確かも。
養老孟司さんの本読んでても、あの文体から感じ受けるのは「無駄なことばっかり
させられてて、時間が惜しくて仕方ねえ!俺は虫とってたいんだから、早く終わらせろ」
という、正面切った捨て鉢さ加減が清々しいんじゃん。北杜夫先生にも感じる。
一見、ほころんでるように見えるところからこぼれ出た本音に触れたくて、
テレビやラジオやネットなんてものに、たくさんの人が触れにかかってる。
圧倒的に多くは「有用」で「耳障りのいい」ステレオタイプなんだろうけど、
飽き飽きしたさなかに、こぼれ落ちてくる拾い物に、キラッとした土臭さ見つけて
負けるんだよね。
と、これを打ちながら、実は庭見ながら、台風の通るのを見てる。
かれこれ1時間以上、窓から外見てる。雨見ながら、風見ながら、昨日うなぎ食べたなあとか
考えてる。すき屋でも期間限定で販売してたなあとか、父さんも病室で美味しそうに
食べてたなあ、とかエピソードも時系列ぶっ飛ばして思い出す。
台風って脳ないのに、動くよなあ。影響を避けられる人なんか一人もいなくて、
みすみす通過を待つしかないっていう過ごし方を「怒りだす」人がいたら、
その人は「自分が理解できないことにパニックに陥ってる」人だよなあ。
プッ、かっこわりー、とか言ってる間に、空が明るくなってきた。目に入ったかな。
宇宙に連れてかれたプラナリアは、前と後ろに目が生まれたんだよねー。
どういう風に「見える」んだろうねえ・・・とかさ、台風見てる風でいて、けっこう
充実してるのよ、無駄ってもののさなかは。楽しいのよね、無駄の幅が広いとさ。
豊かさは、無駄の量に比例すると思う。
某国大統領みたいな全部がディール対象になるかならないか程度の動き方では
みんな貧相な想いすると思うんだよね。うん。思うねえ。
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