書きたいのはマンガやアニメだった。先輩はなぜか女性ばかりでイーゼルと
カルトンを出してきて、炭を握らせた。石膏彫刻を一度書いて、「これは
ダメだ」と納得できたので、私はアニメを作る方法について考えることになった。
よく覚えてるのは夏休みに、自分の教室で(美術室は先輩のへやだからね)
ひとりで汗かきながら絵を書いてたことだ。外では蝉がミンミン鳴いてて
運動部がときどき楽しそうに男女半々の人数で話してたりするのを聞いてて
「おれは高校というこの年の一年目にいったいぜんたい、なんでこんな
悲し気に、しみったれて教室でアニメやってるんだ?」と思ったものです。
この夏、友人と私は「ゼネプロ」という人たちの8ミリ映画上映会にいきました。
感動してなきました。「ここまでやっちゃっていいんだ!!」
一年目の文化祭はしみったれた短編アニメのつなぎあわせと、大好きだった
マンガの無理矢理なアニメ化に、ずいぶんとガックリしたものです。
2年目。部員を増やすことがどうしても必要でした。幽霊部員だろうが
なんだろうが、私は8ミリを作るために、その予算を、部費をいただかねば
なりませんでした。
そこで私は部員勧誘の席で、1年の夏に見たゼネプロの上映会の作品を
上映してやりました。「アマチュアもここまではできるんです!」と
嘘を付かないでだまし討ちしたようなものですが、まぁ、なにはともあれ
50人近い人数を確保できました。
部費はたっぷりいただけました。「美術部」なる名のまま、私はアニメを
作ることばかり推進しました。ヌケヌケとデッサンとかは、私には教えられないと
ヌカした気もします。
「マクロス」なんてのが終わって一年目くらいのころ合いでした。アニメ雑誌は
アニメージュ、アニメック、ジ・アニメ、アニメディア、アウト、なんてのが
ブイブイいわせてました。
2年目は「オープニングアニメ」ってのにチャレンジできる人材数が確保
できました。1分ほどのアニメが秋には完成しました。私費で特撮モノ、なんて
ものもやってましたので、2年の上映会は10分くらいのものができていたのです。
部員はアニメ好きな連中とはいえ、まだ「のめり込みすぎない」連中が
部員としてのこりましたから、今に言う「オタク」はほとんどいません。
そのかわり絵もあまりかけない人が多かったです。そういう人は色塗りを
してもらいました。「絵を書くということ」と、「絵の近くにいたい」ことは
違いますが、私の美術部は後者のようなスタイルが希望でした絵を書く、と
いうのは特殊なことですが、アニメ好きな人には絵が書けなくても
絵に恋する人たちの集まりで十分なのです。
三年目、同じ手法で部員を獲得し、アニメも特撮もブンブンつくれました。
この頃には後輩が育っていた、といえるでしょう。他校の美術部への企画の
乱入もできました。
が、この年の後輩には本当に絵の書きたい女の子がいました。困りました。
だからこの子がこの美術部の本性に気付いたときには「だまされた」と
心外な表現をされましたが、これもまた巡り合わせというものです。
私は卒業して映画の作れる学校に進学をしました。後輩はアニメを続けて
くれたのでその後5世代分くらいはアニメの部として後輩が続きました。
そのどの世代の子にも私は「まさき先輩」と呼ばれ、高校卒業後、社会人に
なってからも皆は「まさき先輩」と呼び続けます。そうした後輩がつれてくる
似たような「アニメ好き」や「けったいなもの好き」連中までもが
「まさき先輩」と呼ぶので、今でも名の知らぬ人からも「まさき先輩」と
呼ばれる30歳になりました。
大学の友だちは皆、得意のジャンルを持つけったいな連中でしたが、この
高校の美術部の後輩は、ただの「アニメ好き」から「ホントは絵が書きた
かったのに!」という輩、はては「運動部だったけど、おもしろそうだから」と
山岳部、野球部、からやってくる連中までごった煮な状況で育まれてきました
から、バラエティに富んだ人材の宝庫として、未だその人脈が強くつながって
います。
半分くらいの人間は結婚をし、子をもうけ、幸せです。もう半分は結婚も
せずに、絵を書いたり、フリーターだったり、幸せです。
そのどいつもが、くったくなく、「まさき先輩」と声をかけてきてくれます。
最近見た、聞いた変なことを報告してくれたり、「先輩ならきっとよろこんで
くれると思って!」と心底奇怪なものを持ってきてくれたりします。
ゆっておきますが、私が変なもの好き、ではなく、皆が「変なものを紹介
しておけ!」なことをしてくるのですから、いわば私は被害者というもの
です。
昨今、やっと、というか美術部はなくなった、とききます。つい1年前まで
OB会だの追い出し会だのが続いていたのも珍妙な話ですが、つまり
未だに私の生活に多くの後輩と、その個々人にまつわるエピソードが強く
影響してきているのです。「誰それが結婚した」だの「病院に入ってる」だの
「逃げ回っている」だの、人の数だけエピソードと人間模様が展開されて
います。楽しい話も不快な話もあります。ただその多彩さはうれしく思って
います。まだどいつも成功したとはいえませんが、何人かは邁進しています。
うまくいってもいかなくっても、わたしはそいつらの動向が大好きです。
この後10年で、もと部員たちが社会の中堅に突入してゆく中、この美術部
コミュニティともいえる連中は、きっとなにか作り上げることがなんとなく
予感できるのです。
それもたった「幸田で美術部だったから」なだけで、僕らは知り合いであり、
信用を無償で得、今後も見て、見られてゆくのです。それだけのことで
私はずっと「まさき先輩」と呼ばれ、先輩ヅラが続けられるのです。
このエッセイの真意はいったいなんなんでしょうか。でも何か書けた気が
します。気が済んだから。おい、君。そこの部員。返事かいてよな。