「われらは危険への愛、エネルギー、そして冒険をうたいあげる。われらは世界に
新しい美が加わったことを断言しよう。それはスピードの美である。もはや戦いの
中にしか美は存在しない。攻撃的な性格をもたない作品に傑作はあり得ない。
われらは何世紀もの歴史の崖っぷちに立っている。われらが不可能の神秘の扉を
突き破ろうとするなら、なぜ後ろを振り向く必要があるのか?」
時々うなずけたりするんだけど、なんなんだろう、この本気ぶりは。
当時はフロイト、アインシュタインが旬な御時世で、飛行船、汽車などで、世界が
大きく「動き」に向かう頃合だったらしい。そんな中未来派は「スピードを賛美」し、
「新しい乗り物を賛美」し、そして「雑音が好きだ!」「19世紀的なものは
すべて壊してしまえ!」「テクノロジーならなんでもいい!」と、きてる。
「宣言文」という形で演劇、映画、ラジオ、音楽、ファッション、料理、スポーツ
等、多様なジャンルに食い付いてゆき、20世紀文化に夢をみていた。もうすでに
このおおぶろしきなところが、私には愛おしい。
次に大きく5項目のコンセプトに話を移そう。
● スピードの美
当時、「交通革命」として「馬」から「自動車、汽車、飛行機、飛行船」と
移った時代なのだった。未来派は「スピード」を讃えてる。それだけじゃ
なく具体的に作品に「スピード」をとりこんだ。
「鎖につながれた犬のダイナミズム」(ジャコモ・バッラ1912年)など
犬をつれた貴婦人の絵なのだが、犬の足の動きを「スピード」で表すために
パタリロの「ゴキブリ走行」のようになっている。前足も後ろ足もシッポ
までもブレて描かれている。犬のみならず、貴婦人の足までもが同じように
描かれる愚直さ!!当時写真は発明されたばかりで、ストロボ効果を意識
したものらしく、作品は他にも似たように「タイピスト」なるものもやはり
手許のブレた写真だったりする。これが作品、なのだ。おお、おお!
● 無線想像力
はるかな地に同時に声やメッセージを送る電信技術をヒントに、従来の
文法や心理を破壊する新しい言語感覚を提唱したものを「無線想像力」と
称した。
で、具体的にはやはり愚直に作品に反映させてる。
大砲の音をそのままマンガの擬音のように、ふきだし状の挿し絵タッチに
描いた「ZANG TUNB TUUUM」。・・・・・・え〜〜〜〜っ
てなものである。凄いセンスだと思う。「目で見る視覚的な詩」なんだって。
え〜〜〜〜〜〜っ!
「汽船、自動車、大西洋横断汽船、電報、電話、蓄音機、新聞・・・人々は
多様な通信、輸送手段の情報が精神にもたらす決定的な影響にまだ気が
ついていない。速度によって地球うは縮小され、逆に人間の感覚は巨大に
なり、全人類と自分との関係を、緊急に定める必要が生じたのだ。」
うわぁ、その通りじゃん。すげえもっともなのだ。まともなこと
なんだけど、気がつきにくい話なのだ。
マリネッティさんは、同時性の概念を実践するために「ラジア」なることを
しようとしたらしい。資料によると
「ラジオの電波にのってあらゆる空間に同時に飛んでゆき、複数の筋を
同時、多発的に行う」予定だったそうだ。「ラジア」は「無線演劇」
なんだって。面白そう。パリともでラジオ局もてたら、是非やろうなぁ。
● 雑音!
「あ〜ン?」といぶかしむ方もいらっしゃることでしょう。しかしコイツらは
本気ですので、あなどれません。それは19世紀までの音楽に対するアンチ
テーゼなんだってんだから、いいじゃないですか。「近代都市、工業機械の
発する雑音を20世紀の音楽!」としたと言うのです。
それにとどまってる未来派じゃありませんよ。イントナルモーリなる「雑音
発生器」まで作りました。モーター駆動で「雷鳴」「疾風」「摩擦」
「打撃」と、様々な雑音を発生・・・・・・恐すぎ。
「こうしてわれらの工業都市のモーターと機械は、やがて知的に調律され、
あらゆる工場で雑音の陶酔オーケストラがうまれるであろう!」ときた。
ウハァ!
上のようなことからわかるように、20世紀テクノロジーを賛美、変革のための
闘争を祝福した人々なので、いきおいテクノロジー=力=男性、と考えは進み、
この裏返しに生まれたコンセプトが
● 女性蔑視
この人たちは力と力のぶつかりあいをたたえるのである。積極的に女性的な
ものを切り捨てて、結果的に自分たちを「19世紀的なるもの」にさせて
しまった。この自滅!このブザマ!なんて本気なんでしょう。
挙げ句に続くコンセプトが
● 戦争賛美
これが未来派の活動に終止符を打った(これを聞いて私は大笑いして
しまった。不遜でしょうか)。
「われらは世界の唯一の健康法である戦争、軍国主義、愛国主義をたたえ、
(中略)命をささげるに値する美しい理想をたたえ、そして女性蔑視を
たたえよう」
その後の1914年、第一次大戦でマリネッティは戦争介入を呼び掛け、
「この戦争こそこれまでにあらわれた未来派の最も美しい詩だ。未来派は
戦争が芸術に殺到することをまさに告げる。革新的な芸術家を軍人に
しようとする」
科学、芸術の進歩を信じ、19世紀はダメッ!って決めた未来派は、どんどん
戦争に参入していった。ボッチョーニは騎兵として戦死、マリネッティ、ルッソロも
負傷。実質的な運動はここに幕をおろしたそうだ。
結局、1920年台にはファシズムが台頭、バウハウス、無意識(フロイト)が
実質的に後世に残れたのに対し、未来派は打ち上げ花火をあげたにすぎなかった
とTVではしめくくっていた。「未来」を思想の根底に置く限り、「宣言」という
形でしか運動できなかった、とも表現していた。「同時性」という新しいタームを
つくったのも彼等らしい。同時にみる、きく、感じるを、世界のみんなが感じら
れる、と無線がメディアの時代の彼等がすでに叫んでいたのだ。
新しい身体感覚。今でこそ当たり前なものが、キチンと運動としてとらえ直しを
していた人たちがいたんですな。本気すぎて格好悪かったりする終わり方に
なっちゃってるけど、こここそイタリア気質のようなおもいきりの良さ、潔さだと
思えて愛おしいです。「良い」とも「悪い」ともとらずに、そのまま「イタリア
未来派っていいなぁ」と羨望することをわたしはお薦めしたいです。